第5話

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 鏡に映る弐祐の姿は随分と窶れているように見えた。

 元からイケてる顔立ちというわけではない。自分で凡庸と称するように至って普通の造形である。イケてるわけでもブサってるわけでもない、と弐祐は思っている。

 黒髪の短髪は、少し色を染めてワックスを付けるだけでまた印象は変わるのだろうが、弐祐は極端にワックスというものが嫌いだった。

 髪の形を無理矢理整える整髪料は髪に悪いイメージが強い。

 塗ったそばから生え変わっていくのだから実際には、それほど影響は無いのだろうがそれでも憚られた。

 タバコを吸わない人間が吸っている人間に対して、強い拒否感を抱くようなものか。

 タバコ自体はもうWHOによって全会一致でタバコ消費の削減を支持する程には危険視されている。

 実際、肺炎などの病気や身体に異常を起こす人間もいる。

 だがそれでもタバコをやめる人間はほとんどいない。タバコそのものに魅力があるのだ。吸っているだけで周りから大人に見られることもある。

 それに、百歳を超えた老人が未だにタバコを吸って元気ピンピンにしている事実がある故にタバコの根絶は難しい話だった。

 そう言ったリスクを背負いながら、幸福感や他人からの評価というメリットの点でワックスも同じものだと弐祐は思っていた。

 タバコに比べて、高校に入ればもしくは中学に入った頃から、或いはおませな小学生の頃からワックスを愛用している人間は多いだろう。

 実際髪に影響がほとんどないのかも知れない。

 WHOで話題にすら上がらない些末ごとだ。

 それでも弐祐はワックスを付けない。付けるくらいならば、寝癖が取れるまで髪を洗うのだ。

 タバコ=ワックスくらいの比率で見ている弐祐は、田舎の畑の様に元気に跳ねている髪を鎮める為、今日も朝からシャワーを浴びていた。

 風呂から上がり、バスタオルで下半身を隠す様に巻いて、ドライヤーとタオルで髪を乾かす。

 弐祐は朝が元から早いので、体内時計が正確だ。例え、前日の夜中に天井ごと床を貫いて女の子が降ってきて、裸で抱きつかれファーストキスをされ、その相手は実は死んだ人間でこれから暮らす様強要されたとしても、問題なく起きる事が出来る。

「ってぇ! 夢じゃあないのか!? これ!」

 あまりの現実感のなさにとりあえず一人で叫んでみる。

 目の下のクマも、身体の途方も無い脱力感も本物だ。

 だが朝起きてみれば傍らで寝ていたはずの少女は何処かに消えて、リビングの生命維持装置は何処かに消えて、家にあった筈の破壊の後も何処かに消えて、綺麗さっぱり昨日あった出来事の全てが拭い去られていた。

 まるで悪い夢だったと弐祐に伝えているかの様に。

「ていうか、そもそもあいつがいないんだから、もう夢オチでしたって事で良いんじゃ無いのか?」

 それが一番平和で皆が幸せになれる結末だ。

 平和な世界バンザイ。

 だが、弐祐の願いは虚しく天に届くことはなかった。

 両の手にドライヤーとタオルを持ちながら、腕を組んで考え事をする弐祐の背後、洗面所の引き戸がゆっくりと開いていく。

 そして、光る瞳が二つ。

「にすけー! おっはよー!!」

「イャァァァァァ夢じゃあなかったぁぁっ!!」

 引き戸を一気に開けて、少女は弐祐の背中に抱き着いた。

 飛びかかる勢いに弐祐に対する配慮は一切なく、完全に意識の隙間を狙われた弐祐は勢いを殺す事できず洗面台の人工大理石へと腰角を強打。

 痛みに悶える弐祐を置いて、少女は無防備になった背中に頬を擦り付けていた。

 昨日の時点では確かに舞猫の服を着ていた筈の少女はなぜか裸。弐祐はバスタオルのみを装備、ちょっとした衝撃で裸一直線。

 もう既に案件である。

「んーふふ。今日からにすけチャージ習慣、再開するのー」

 少女は弐祐の背中を大いに堪能する。

 チャージというのが弐祐成分の解釈で間違いならば、充分過ぎる速度で少女の表情がとろけていた。

「ちゅめたいー。きもちいいー」

「うぉい! 今俺はそれどころじゃないの、まだ歯磨きも終わってないし……てか今までどこ言ってたんだお前」

「私、はちょっと運動してきただけだよ」

「は……?」

 弐祐は戦慄した。

 満面の笑みで答える少女の言葉が真実であればそれが意味するのは、霜崎町に露出教少女爆誕のお知らせである。

「それでね、汗ばんで服全部脱いじゃった!」

「ほ……よかた。よかたよ、マジで」

 刑事裁判に召喚された際には関係を全面否定する予定であったが、そこらへんの自制は効いている様で助かった。

 弐祐はホッと安堵の息をつく。

 ぺたりと引っ付く少女をなんとか引き剥がして、弐祐は制服に着替え朝食を作った。

 本来なら慈尾奈がいつも作ってくれるが、警護隊の特殊な手回しによって今も仕事をしている。留守電で弐祐が聞いたことも無いような叫びをあげて謝罪をしながら、紙にペンを走らせる音が、その証拠だった。

 とはいえ、弐祐自身も料理は出来る。それは今回の様に仕事が忙しく慈尾奈が帰って来れない事態はよくあったからだ。

 弐祐が朝食を作る間、ダイニングテーブルに座らせた少女はそわそわして落ち着かない様子を見せていた。

 どうやら漂う香ばしい匂いに腹の虫が鳴っているらしい。

「にすけ! ごっはんごっはん!」

 こう言ったお転婆で精神年齢低めの女子が催促する時、フォークとナイフを手で持って机の上をどんどん叩くイメージが弐祐は強かったが、意外にも彼女は箸を扱えた。

 器用に持って、カチカチ箸の先端を合わせて音を鳴らしている。

「行儀悪いだろ。箸は一旦置いとけ」

「……はーい」

 怒られた事にしょげた少女は口をとんがらせながら言う通りに行動する。

 蘇生された期間がどれほど長いのか短いのか知らない弐祐にとって、少女が箸を扱える事は意外だった。

 弐祐は生命維持装置の養液に浸かっていた状態から出てくる瞬間の彼女を見ている。

 筋肉に関しても衰退しているものかと考えていたが、弐祐の思い過ごしであった。

 少女の話を信じるなら朝は町内を走り回って十キロ程走っている様だし、どうやら肉体に影響は無いようだった。

 寧ろ好調なくらいでは無いだろうか。

「出来たぞ」

 事前に弐祐が準備した皿に、次々と朝食を乗せていく。

 今日の朝食は無難にソーセージと目玉焼き、そしてご飯だった。

 空いたコップに牛乳を注ぐ。少女にも牛乳が飲めるかを聞き、同じく注ぐ。

「じゃ、いただきます」

「いただきます!」

「と、その前に」

 手を合わせ行儀よくいただきますをしたところで、弐祐はすぐに箸を置いた。

 真剣な表情で前方、少女を見ると、

「ぅぁ?」

 既に大口を開けて、目玉焼きを食べる直前であった。

 箸に掴まれた目玉焼きは行き場を失いそのままぼとりと皿に落ちる。

 弐祐は気にせず話を続けた。

「今日、俺はこれから学校に行く。おまえは一日お留守番しておくんだ」

「えぇーっ! つまんない!」

 テーブルを勢いよく叩いて、不満を態度で示す少女。

 頬を膨らまして更に追撃してくるが、弐祐は今、心を鬼にして接している。

 もし目の前の変態少女を町一人でうろつかせでもしてしまえば、確実に人様に迷惑がかかるだけでなく最悪黒劔姉妹にも風評被害を与えるかもしれない。

 それだけは絶対に避けなければならない事態だ。

 せめて人並みの常識と恥じらいを覚えるまでは家に閉じ込めておきたい。

 どんなに目の前の少女が可愛くても、ファーストキスを奪われた相手でも、揺るがない心で立ち向かう弐祐だった。

「ダメだ。服も自分で着られないような奴を外には出しておけない」

「服着れるもん! 私、ちょっとずつ進化してるもん!」

「なんだそれ……。そんな言い分で押し通ると思ってんのか……?」

「外出たい出たい出たい出たい!!」

 頬を膨らませ顔を真っ赤にして、今度は床に倒れてジタバタと踠き始めた。

 まるで子供の駄々である。

 だが想像以上に早く疲れたのか、速攻で息が上がっている。

「おいおい。まだ疲れ残ってんだろ。無理すんなよ」

「外出してくれなきゃいやだ」

「ま、諦めろ。そうだな、せめて後一週間くらいは様子見しないとな。無断で今日の朝も外出してた罰だ」

「いっしゅうかんっっ!?」

 少女は目を見開いて、驚愕の色を示していた。

 確かに子供心理で言うならば、一週間も家に閉じ込められるのはかなり厳しい仕打ちのはずだ。

 だが、弐祐はそれを承知で口にしている。

 自分でも一週間も閉じ込められると考えれば何もすることがなく、リビングで陽の光を浴びるだけの苔と化す自信があった。

 だがそれを踏まえて尚、少女には危険要素が多過ぎた。

 落胆に顔を歪める少女の反応を見ながら、弐祐は未だ真顔を貫く。

 彼の決意は固かった。

「じゃぁ……さ」

「なんだ。何を交渉材料にしても引く気は無い」

「キスしたげる……って言ったら、どうする?」

「……え?」

 瞬間、弐祐の心のダムが決壊した。

 人は自制によって欲望を抑えている。

 今、自制と言う名の仮面が剥がれ、欲望に思わず心が揺れ始める。

「昨日みたいなチューしたげる、だから外に出して」

 ──こ、こいつ。自分が何言ってるのか分かってんのか!?

 自分の唇を人差し指で抑えながら言う少女の姿は妙に艶めかしく、昨日のキスの感触を思い出し弐祐は口を両手で押さえた。

 沸騰しそうな血の滾りを感じながら、弐祐は反逆の一手を探す。

「そ、そそそ、そんな事で俺が籠絡されると思ったら、大間違いっぢゃ!」

 動揺が表に出過ぎていた。

 その隙を逃す少女ではない。

「いいよ。にすけが満足するまで幾らでもしてあげるよ……?」

 男が女に欲情する条件は二つある。

 経験豊富な女性が手練手管を用いて、自身を綺麗に見せる事で、男性を魅了する技だ。

 例え美人でなくても、身体を使い、或いは技術を使い男を篭絡しにかかる。それにより予期せぬ赤ん坊ができてしまいデキ婚に持っていかれる事など昨今では珍しくもない。

 そしてもう一つの要素が純粋無垢、である。

 性の知識も経験もないような、女子が自分の身体をほぼ無条件で触らせてくれるような事態に持ち込んだ時、そこには不思議と魅力が生まれてくる。それはつまり、目の前にいる女性は自身に対して警戒をしておらず、自身であれば身体を許すに値する存在と見ている証明となり、男は自然と信頼を置かれている立場を理解し、女子に惹かれる。

 大人か、幼さか。その両極端な選択肢が特に経験のない童貞には効果抜群である。

 しかもそれが、美少女だと言うならばそれこそ必殺級であり、しかもファーストキスを奪った嫌が応にも気になる相手ならば、即死である。

「しょ……しょんなに、言うなら……ちょ、ちょっとだけ、ちょっとだけなら、許したっても、いいかな〜。ま、まぁ、い、今からするチューによっては、だけど、だけどな!」

「やったー! ほら、ん」

 床に胡座をかいて何の色気もない姿勢で、少女は己が唇を突き出す。

 元々死んだ人間とは思えない艶めいたぷるぷるの十代特有の新鮮な唇。

 今すぐにむしゃぶりつきたい。その唇に唇を重ねたい。その一心であった。

 だがしかし、弐祐は動かない。

 自分に課せられた責任の重大さを理解しているからだ。このまま欲望に任せて行動すれば黒劔姉妹に迷惑がかかるのはもちろん、自分を信じて預けてくれたR計画の関係者に申し訳がたたない。

 だからこそ、弐祐はその場に棒立ちし、わなわなと体を震わせていた。

 前に行くでも後ろに引くでも、左右に揺れるでもなく、震えていた。

 前に進もうとする唇を、噛み締めて一筋の赤い線を口から垂らす。

 最早、頼れるのは痛みだけだった。

 その瞬間、リリリリリッと携帯のタイマーが鳴った。毎日セットしてある時間制限のお知らせのタイマーだった。この時間を大幅に過ぎると学校に遅刻する。

「あ、やべ! もうこんな時間かっ、じゃっそういうことで、おまえは外に出ちゃいけないからな! 今日舞猫と慈尾奈さんにも紹介するんだから大人しくしておいてくれよ!」

「えっ、にすけまって────」

 少女の声が全て聞こえる前にリビングの部屋を飛び出し、靴置き場に置いておいたカバンを勢いよく取って玄関を飛び出して学校へと向かう。

 ──くっそ。俺は猿か!

 罪悪感と、欲に流されそうになった自身を罵倒しながら弐祐は登校していった。


 時間は少し遡り、時刻は早朝の五時。

 岩手県近郊の峠にて一人の男性がYAMAHAの大型自動二輪車MT-09に乗って走行していた。

 黒光りする車体は発売当初から手入れを欠かさず行っていた証であり、時が経ち新しい型が出ても尚、男が愛し続けたバイクであった。

 男は毎日バイクに乗って様々な道を走るのが趣味であり、今日も風を切る感覚を味わう為にその速度を体感していた。

 冬季になると封鎖される曲がりくねった狭い道、そこをバイクで乗り回す感覚が楽しくてたまらない。

 直線距離を爆走させるのも楽しみの一つだが、男はやはり自身が運転している感覚を楽しみたかったのだった。

 夜明け前、暗い道。ライトだけが、道しるべだ。

 だからこそ気づかなかった。道の真ん中に半裸の男が突っ立っているなんて。

 ────うわぁぁぁっっ!!?

 時速六十キロを越えるバイクが、男に向かって直進する。狭い道では左側が壁であり、右側が崖になっている。中央に立つ半裸の男は大きな身体をしており、隅に避けようとしても必ずぶつかってしまう。最悪、右に避けて崖に落ちるしかないが、その咄嗟の判断を運転手ができるはずもなく、ただ男は道に立つ半裸の男へと突っ込んだ。

 が、男は奇妙な感覚を得た。

 身体の重みが消え、無音の世界。

 男の身体は宙に舞っていた。半裸の男は、そのまま直立不動の姿勢で、バイクを片手で掴んで無傷。尚且つ、舞う男の姿を直視していた。

 ──な、なんだこいつにんげ。

 唐突に男のモノローグは終わる。

 数メートル宙に舞った男は重力に身を任せ、肩から地面へと落ちた。

 慣性は男の意思に構わず働いて、ゴロゴロと道を転げていく。

 遂に止まった時には、男は立てない程に負傷していた。

 上腕骨近位端骨折に加え全身打撲。重傷であった。

「おいおい、突然飛び出してくんなよな。大丈夫かよ、にいちゃん」

 メット越しに見る半裸の男の姿は、怪我のせいで視界はボヤけていたが、筋肉質の大男だった。

 それでも人間が素手、しかも片手で六十キロを越えるバイクを掴んで無傷とは到底思えない。

 半裸の男はバイクを掴んだまま、バスケットボールでも持つかのように持ち運び、男を見下ろしていた。

「ちょうど歩き疲れてたんだ。悪りぃな、事故代としてこのバイクは貰っていくぜ」

 朦朧とする意識の中で、男は半裸の男に手を伸ばした。

 愛着のあるバイク。決して安くない値段だったのもあるが、数年一緒にいた愛車は家族と同じ程に愛が強い。その家族を今、目の前の男が連れ去ろうとしている。

 許されるはずがない。

 許していいはずがない。

 エンジン音が聞こえる。聞き慣れたあの重厚な心地よい音が去ってしまう。

「あぁ……そうか。そうだな。このままこいつ生かしとくと、盗難届とか出されて警察が動くのか。そりゃ、ダンナに迷惑がかかるし仕事が面倒になるなぁ」

 エンジンを付けたまま、センタースタンドを出してバイクを置き、半裸の男は地面を舐めるように這い蹲る男に近寄って、その首を持った。

「ぐ……っあ」

「Just right! 今まで走りっぱなしで肉がちと、足りてねぇんだ。証拠隠滅も兼ねて、ちょいとにいちゃん不思議な体験してみねぇか」

 半裸の男は空いた片手でメットをひっぺがすと、叫んでもがく男を無視しその大口を開けて首の根元にかぶりついた。

「────ぁぁっっ!!」

「肉を食うことはあっても、喰われることはねぇからなぁ。メイド土産に先祖にでも語りきかせてやりな」

 胸鎖乳突筋に僧帽筋、首を守る筋肉繊維達を根こそぎ噛みちぎり、その食感に頬をあげる半裸の男。

 食い痕からは致死量には充分な鮮血が噴き出して半裸の男を赤へと染めていく。

 既に喰われた男は声も出なかった。

 バイクのエンジン音が激しく唸りその場を去っていく。

 その日の昼、峠の道を通った地元民によると細道一杯にぶちまけられた血はまるでそこだけ異界のようだったと、震えていた。

 ダウントは今、岩手県にいる。


 つまらない日常を充分に過ごし、今日も弐祐は放課後を迎えていた。

 相変わらず朝から慈尾奈とは連絡が取れず、その度に仕事に追われているのかと思うと、凄く申し訳ない気持ちになった。

 しかし舞猫の方は普通に登校して来ており、朝校門であった時もおはようの挨拶を交わしている。

 そして今も、隣にいる。

「どうしたの、考え事?」

 ホームルームが先に終わった舞猫に待ち伏せを食らった弐祐は共に下校していた。

 校舎内は相変わらず部活動に行く者、遊びにいく予定を立てる者、普通に下向をする者達の喧騒によって満たされている。

 その中を二人で歩く舞猫と弐祐。

 学校一の美女と名高い舞猫とどこにでもいるような生徒Aが、肩を並べて歩いている事は事件であり、本来なら体育館裏で処刑物の所業だが唯一弐祐は許されている。

 それは舞猫が、彼と同棲していると公言した為である。

「あぁ。結構人生の中でも崖の中の崖っぷちに立っていてな。これが本当の山場って奴と悟っているよ」

「あら。昨日私が家に帰らなかっただけで、何かあったのかしら。姉さんと」

「そうだったんなら、良かったんだがな……」

 からかってくる舞猫はいつも通り嫌な奴の認識だったが、弐祐はそうもいかない。

 揶揄われた弐祐は過剰反応し、それを見て舞猫は密かに楽しむ。

 時には大声で叫んで、時には静かに冷静な突っ込みを入れる。

 その機微が日によって変わるので、舞猫は毎日のように揶揄うが今日に限っては覇気がない。

 その事に十年一緒に過ごして来た舞猫が気づかないはずもなく、訝しげに顔を覗き込んで舞猫は訊いた。

「なに、どうかしたの? 悩みなら聞くけど」

「いや、まぁ、相談出来る悩みならどれだけ嬉しいことか……。というか、必ず舞猫も知る事になるから今話さなくても良いというか」

「なによそれ。煮え切らないわね」

 少し不服ではあったが舞猫は引き下がった。

 弐祐の深刻な表情が、本当にそれこそ精神的異常を来しそうな程に蒼白としていたからだった。

 舞猫との同棲発表による異性からの猛攻撃、机には大量の画鋲を詰め込まれ、筆箱は墨だらけ、弁当箱はいつのまにか食い荒らされているという嫌がらせの悪夢一週間を遥かに凌駕する難敵、青目の少女。

 前回は舞猫の「次弐祐にこういう事してるの知ったら、キンタマ殴り潰してあげる。何でとは言わないけどそうね、野球部から借りて来ようかしら。一番固そうなの」と彼女の鬼すら殺しそうな般若の形相が全ての男子を黙らせたが、今回はまた毛色が違う難問である。

 弐祐の口からは本日で丁度三十回目の溜息が吐かれていた。

「弐祐。溜息は幸せを逃すというわ。吐くくらいなら私の耳を噛みなさい」

「はむっ」

「はわわわわわっ! な、何……へ、へへ、き、今日は随分と、積極的、なのね……」

 不意打ちをくらい耳を甘噛みされた舞猫は、はらはらと脱力し廊下に座り込む。

 初めて弐祐の方から迫って来てくれた嬉しさと唇の感触に浸りながら己が耳を触っていた。

 当の弐祐の方はといえば、丁度先日ファーストキスを済ませ羞恥心がだだ下がり、今後のことを思案して半ば放心状態である為、大抵のいう言葉には反射で動いてしまう。

 身体が覚えた帰り道をとぼとぼと力無く歩いていく。

 下駄箱でローファーへと履き替えて、舞猫をおいて先へ先へと進んでいく。

 そうして、足を止めた。校門前で、唐突に。

 いや、直感でいうならば彼はこの展開を充分に予想していた。

 経験則で言うならば、この未来はもしや免れないのではないか、と。

 だが杞憂に終わればそれに越した事はない。

 信じる者は救われる。聖書にも書いてあった。

 意味合いは、全然違うのだろうが。

「にすけ!」

 青色の瞳を輝かせ、茶色の髪を纏めてポニーテールにした、デニムGジャンに白のリプワンショルタンク、ベージュのツイードパンツ。そして黒のサンダルを履いた一度死んだ少女がそこには立っていた。

 オシャレをして、立っていた。

「な……んで」

 驚愕、その一言に尽きた。

 コーデに使われた洋服は見覚えがある為全て舞猫のタンスから拝借したものなのだろうが、彼女にはあったのだ。

 服を着るセンスが、存在していたのだ。

 思わず手提げバックをぼとりと落として感動及び驚愕する弐祐の顔を見て、いたずらを成功させた子供のような笑みを浮かべて少女は笑った。

「サプライズせいこー。えへへ」

「来るなって言ったのに……」

 一先ず変態ではあるものの、その事実が町内の周知になる事は避ける事が出来た。

 ホッと胸を撫で下ろす弐祐。その意味がわからないように少女は首を傾げる。

 彼女は少し幼いだけであって、意外と中身はしっかりとしているのかもしれない。箸もきちんと持てる、服のコーディネートも今時の高校生のオシャレ度に見合うレベルを見せている。

 実際に校門を過ぎる生徒達から好奇の目を向けられながらも、瞳の奥は魅了された光を感じさせた。

 変質行為を受けた弐祐でさえも、一目で可愛いと思ってしまったのだ。

 仕方あるまい。

「それは私の服を、無断で貸した事がバレるからかしら」

 一番の懸念していた最悪の事態を、辛くも回避した弐祐ではあるものの、肩にのしかかる骨が砕けそうな重み。

 それは幼馴染の不敵な笑みと共に訪れた修羅場だった。

「いたたたたっ!? か、肩! 肩がぁっ!?」

「弐祐。話しなさい。この子は、誰? そしてなぜ、私の服を着ているのかしら?」

 左肩を満面の笑みで握り潰す握力はとても高校生の女子が出せるものとは思えない痛みだった。

 その痛みで、弐祐は立つ事も抗う事も出来ない。

 目に涙を浮かべながら弐祐は必死に訴える。

「ま、まずは校門から出よう! そこから話をしよう! 皆見てるから……見てるからァァァッッッ!!!?」

 そこから弐祐は説得に一時間を要した。

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