第2話

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 上がれ。

 早く上がってくれ。所長の期待を裏切ってはいけない。

 研究所内、格納庫にてジェット機ストークが離陸準備をしていた。

 限りなく二辺が長くなった二等辺三角形の形をしたこのジェット機はマッハ一を超える速度を出せる代わりに、脱出用に作られた一回きりの飛行を可能にした機体だった。

 運転室に乗り込んだ白衣姿の男、花咲は額から脂汗をダラダラと垂らしながら発進チェックをしていた。

 操縦の必要のないストークは乗り物の運転資格を一切持たない花咲でもしっかり目的地まで運んでくれる。

 とはいえ運ぶべきは花咲ではなく、同乗している箱のほうであった。花咲が信頼を寄せる研究所所長が完成させた研究素体。それをたった一人ではあるが敵対組織が奪いに来た。

 政府に対抗できる組織など花咲には心当たりがなかったが、このような事態は充分に懸念されていたことだ。

 なにせ研究が研究だ。その為に緊急離陸ジェット機ストークが研究所には常備されていたのだから。

 まさか使う事になるとは夢にも思わなかったが、それでも今現在研究素体を安全に運べるのは花咲しかいない。

 他の研究員は根こそぎ侵入者に殺されてしまった。偶々研究素体と近くにいた花咲がこの任務を担うこととなったのだ。

 後悔も恨み言もない。自分の仲間達は自分を救う為だけに犠牲となったのだから。何が何でも研究素体だけは侵入者に奪わせるわけにはいかない。

 花咲は焦燥しながら早く発進しないかと貧乏ゆすりをしていた。

 今彼に出来ることはない。ただ操縦室に座って発進を待つだけだ。心配性の彼は何度も後ろを向いてストークに研究素体が入った箱のような形をした生命維持装置があるかを確認した。固定ベルトに巻かれた鋼鉄の棺桶じみた生命維持装置は例えグレネードランチャーを撃ち込まれても傷一つつかない耐久性を誇り、内部に一切の衝撃を与えない最高級品だ。生命維持装置を開ける方法は所長が持つリモコンによる遠隔操作でしか開ける事は出来ない。

 機体が大きく揺れた。ガラスを覗き込むと研究所の仕掛けが起動して、目の前には青い空が広がっていた。そうして発射台がぐんぐん目の前に伸びていき、充分伸び切ったところで、エンジンが点火した。

 身体が置いて行かれる感覚と共に視界は一気に青い空の中へと飛び込んでいった。

 機体がガタガタと揺れ乗り心地は最悪だった。

 後ろを振り返って研究素体を見る余裕もなく、ただひたすら揺れが収まるまで目の前まっすぐ一点から目を離すことは出来ない。

 だが揺れは収まるどころか激しさを増して、身体が揺れ、視界が揺れ、脳が揺れる。

 強烈な嘔吐感に吐き出したくも身体は動かす事も出来ない。

 緊張感と揺れから我慢の限界になった花咲は思わず真横に嘔吐した。

 焼けるような食堂の感覚と鼻をつく酸っぱい臭いが更に気分を悪くする。

 そうして身体を硬直させる事数分でやっと機体の揺れは収まった。

 とはいえ、まだまだ立てるような状況では無かったが、その気分の悪さにシートベルトを外して機体の後ろへと駆け行き、常備された非常用の水を一本、容器を手で握り潰して一瞬で飲み干す。

 新鮮な水ではなく保管され続けていたものなので美味しいとは言い難かったが、充分に気分を和らげてくれた。

 口を拭い、容器を投げ捨てる。

 軽い揺れでも体調が優れない花咲をフラつかせ、壁に手をつかせる。

 満足に立つ事が出来ない花咲はそのまま壁沿いに操縦室へと戻っていく。

 顔を横に向ければそこにはベルトにぎっちりと固定された研究素体。装置に取り付けられた丸い窓からは素体の顔が覗けるようになっており、緑の培養液に浮かぶ童顔な少女の顔が確認出来た。

「へ、こんな少女に人類の夢が詰まってるなんて……信じられないよな」

 おまけに付け加えるならば箱の中はどんな揺れがあっても、中の少女に危害を加えることは無いので全身蒼白の自分に比べたらどれだけ快適なんだろうかと、花咲はボヤく。

 そもそもの初めは所長の私情から全ては始まったと花咲は聞いていた。

 所長の身ではなく守るべき家族に何か惨劇があったと小耳に挟んでいた。それが真実か事実かは判らない。

 だが所長が家族の話をする時はいつも悲しそうな顔をして、絶対に必ず、と呟き始める事からも真実でなくともそれに限りなく近い事情である事は察する事ができる。

 だとしても、彼が私情を拗らせそこから人類の夢を実現させたとなると人の思いとはやはりバカにならないものだ。

 花咲にそんなものが無いことは自身で重々承知だが、つまり出世出来ないのはそういうことなのだろう。

 自身の矮小さを鼻で笑いながら、目を操縦室へと戻す。

「え」

 花咲はあり得ない光景に思わず、声を漏らした。

 機体、操縦室へと続く一本道のど真ん中に仁王立ちする男が一人。

 赤い一つ目が光るバイザーで口元以外の頭部を隠し、服は黒の燕尾服。紺色の基調に赤の縦線が入ったシャツに赤ネクタイ、赤のサスペンダー。ズボンは黒のスラックス。

 そして腰に佩く二本の短い日本刀。

「う、嘘だ……。バカな。い、一体いつか──ば」

 壁から手を離し、指を指し狼狽した花咲だったが彼の出した問いの答えを、彼が聞くことはなかった。

「一体いつから、だと?」

 ゆっくりと染み込ませるような低声が、バイザー男の口から発せられる。

 黒い手袋がはめられた右手は手刀の形で振り上げられていた。

 その手には赤い液体がべったりと尾を引いていた。

「最初からだよ」

 言い終わる男の声と共に、ごとんという鈍い音が響く。

 花咲は薄れゆく景色の中で自身の身体が地面に沈んで行くところを見た。

 ──俺、死んだのか?

 事実を理解したと共に首を切られた花咲は絶命した。

 頭と共に身体も力なく、糸の切れた人形のように地面に伏す。

 その様をバイザーの赤い目で追った後、箱へと視線を移す男。

「さて。任務はこいつの回収だ。さっさと済ませて────」

 男が生命維持装置を固定するベルトに手を伸ばしたその瞬間、大きく機体が揺れバランスを崩す。

 同時に機内に警報が鳴り響き、室内が赤い光で埋め尽くされる。

 何事かと男は赤い一つ目を操縦室へと向ければ、そこにある画面には“本機体は十秒後に自爆します”という文字。

 流れるように視線を花咲の死体に移せばその手に握られているのは、何かのボタン。

 花咲の命令は研究素体を運ぶだけでは無い。誰か侵入者がいれば自分諸共機体を爆破する事だ。例え上空一万メートルから落ちても傷一つつかない生命維持装置ならば敵に奪われるくらいなら、適当に日本列島の大地に落とせばなんとかなる。そういう所長の判断であった。

 それを花咲はバイザーの男を見た瞬間に胸ポケットから取り出し押す準備をしていたのだが、男の手刀が一手早く首を落とした。おかげでボタンを押すのは死体が倒れた瞬間になってしまったが、花咲は死して尚任務を全うしたのだ。

 男は状況を理解し、何をするでもなく落ち着いた様子で仁王立ちし言った。

「してやられたな」

 直後、強烈な光が辺りを包んでストークは爆発した。


 プププっとダウントの通信機が鳴った。

 ダウントは耳を抑えて聴き間違いでは無いか電源が入っていることを再確認し、通信ボタンを押した。

「ダンナか。どうした?」

 ダウントにしてはかなり早く通信に応対した気持ちだったのだが、とうの“ダンナ”からは声が聞こえず、ジジジジだのヒュゴォォォだの雑音が入るばかりであった。

 もう一度ダンナ? と訊いてみれば、少しの間を置いて聞き取りにくくはあるが声が聞こえた。

『ジジジジ…………すまな…………こっちは逃げら……ジ……一手、相手の方が…………だったな……ジジ…………そっちは…………ジジジ…………どうだ?』

 酷く割れた音は思わず片目を瞑らせる程に、不快なものでとうのダンナの声もほとんど聞き取る事は出来なかった。

 随所随所聞こえた部分をダウントなりに理解する。

 謝る言葉、そして逃げという単語。

 ダウントが絶対的な信頼を置くダンナが失敗するとは、信じる事が出来ないダウントではあったが態々通信機を使って連絡までしてきたのだ。

 聞き取った単語だけで理解するなら、真実なのだろう。

 ダウントは確認を込めていった。

「つまり……ダンナは標的を逃した。そういうことでいいんだよな??」

『……ジジジジ……そうだ』

 少しの間を空けてダンナは認めた。

「なるほど……じゃあ俺はどうするべきだ? 標的を見失ったならそれはそれで結構やばいぞ。俺の鼻だって、何キロ先まで嗅ぎとれるわけじゃ、ねぇんだからよ」

『……ジジ……標的は町に落ちた。……大桜町……付近だ。……ジジ……グランドマーク……ワーが見える』

 ダウントは舌打ちをした。

「まぁまぁ遠いじゃねぇか。全力で走って、更にタクシー拾っても半日……最悪一日はかかるぞ」

『……それを承知で……ジジ……君に頼みたい……私は今……ジジ……動けない』

“ダンナ”が頼み事をする時、それはほとんど彼自身が他の仕事で任務につけない場合に限った。

 どんな仕事でもこなす男“ダンナ”。

 それは暗殺から食卓に並ぶ料理まで万能だ。

 勿論彼が主に担う仕事は暗殺や表沙汰に出来ない事ばかりだが、ダウントは一度だけ彼の料理を食している事から、その完成度共に万能と呼べる人間だろう。

 ダウントに出来ることと言えば何も考えずに人を鏖殺することくらいしか無いのだから。

 そんな彼が動けない、ということは予期せぬ怪我を負ってその場から離れられないのだ。

 それを察したダウントはその口の端を上げて、

「承知したぜ、ダンナ。俺が……この俺が責任持って確保するぜ。何より誰よりこの、俺のために!」

 場所は聞いた。目的も聞いた。

 後はダウント自身が動くだけだ。

 相変わらず鳴り響くサイレンに加えて、呻き声が前方から聞こえる。

 それは手に持った隊員の声だった。メットを剥ぎ取って剥き出しになった頭部を守るものは誰もいない。

 バスケットボールでも持つかのように軽々と頭を持たれた隊員以外は皆、廊下に血を流して倒れていた。

 手に持った頭をメキメキ言わせながら握りつぶし、スイカのように割った。

 中身はおどろおどろしく、鮮血と共に脳漿もぶちまけられ一般人なら卒倒ものだったが、ダウントの視界の端にすら映らない。

 ダウントの哄笑が響き渡る。

 彼の行き先は、大桜町。


 ---


 友達の家に行くと言った舞猫と別れを告げた後、弐祐は寄り道もせず家に帰った。

 時刻はもう既に午後七時半を過ぎている。

 空の暗がりは冬独特のもので、雨が降りそうだと感じた曇天は未だ空を覆っているが、雨は降らない。

 思い過ごしで良かったと、弐祐は安堵した。

 弐祐が住む霜崎町は決して誇れる地元ではなかった。

 特筆すべき特産物や観光名所は一切なく人口も減少の一途を辿る寂れる一方の町。交通面でも弐祐の家から最寄りまで走っても十五分、歩けば最悪三十分かかる不便さ。せめてもう少し近ければと弐祐が思ったのは数え切れない。

 だが弐祐の最寄りである霜頭駅から四つ先の駅には大桜町は日本を象徴するグランドマークタワーが建っている。

 グランドマークタワーは千九百九十年に建築が開始され、本来なら三年程度で完成する予定だった。だが総資産額四兆五千億を持つ大企業銀河院財閥の買収により、改修工事が途中から始まり、完成時の当初予定していた物を大幅に上回り日本初のスーパートールとして名を轟かせた。

 最頂部五百九十三m、総階数九十七階。

 タワーの一階から十階までが銀河院財閥と提携する企業のショッピングフロアとなっており、それより上は全て財閥所有のオフィスフロアとなっている。

 日本初のスーパートールの登場はその付近に様々なメディアを大量展開させ、大桜町は見事日本の代表する観光名所となった。

 そんな観光名所の近くに建てられた学校、氷川高校。ただでさえ注目を集めている高校なのに、迷惑極まりない話であった。たった四駅だけなのにJRの駅は驚く程人が混む。二番線に乗れば横浜に行けるというのに、なぜか一番線大船行きに乗る人間が多い。

 おかげで弐祐は今日も人混みに揉まれて帰る事となった。運良く車両と車両の間の貫通路に座ることが出来れば、その日は人混みに揉まれなくて済むのだが。

「今日も俺お疲れ」

 人混みと帰り道で酷使した足の疲れに労いの言葉をかけながら、鍵を回し弐祐は家に入る。

 家族が一人もいない弐祐にとって家とは一つの城であった。

 誰も侵入してくることのない鉄壁の城塞。

 家族が他界してから彼を世話する人間をどうするかという話が持ち上がったが、家族全員をいっぺんに失い失意に落ちた子供を救える程の余裕が親族にはいなかった。

 そんな酷い世界を前に弐祐は堕ちていく。

 暗い暗い闇の中へ、残されたのは形見のペンダントのみ。

 陽に当てると緑の小さな光がコロコロと石の中で輝く不思議な石。

 それを毎日、無心で眺めるのが彼の心を癒す習慣だった。

 そしてその習慣はふとして破られる。

 過去を振り返ってもあの時の瞬間ほど驚いた時はないと弐祐は思う。

 なぜなら、彼を救ったのは誰でもない。

「あら、弐祐ちゃんおかえりなさい」

 ──他人、だったのだから。

 リビングへと通じる扉から姿を現わす優しく包み込むような声の主。

 パジャマのまま眠たげな目を擦って気怠げに歩いてくる豊満な身体つきをした女性。身長はほとんど同じだが、彼女から漂う大人の色気はとても高校生が出せるものではなかった。

 彼女の名前は黒劔慈尾奈くつるぎじおな

 舞猫の実の姉であり、弐祐の世話を今までしてくれた恩人である。

「ただいま。慈尾奈さん」

「全く堅苦しいなぁ弐祐ちゃんは。高校生にもなってさん付けかよ〜」

「慈尾奈さんがラフすぎるんです」

「そうかもねー」

 適当に慈尾奈は答えると、痒いのか頭をボリボリ掻きながら、再びリビングへと戻っていく。

 それを見届け、弐祐は靴を脱いで靴箱に入れる。

「あ、そいえば弐祐ちゃん」

 弐祐がしゃがんだ状態で後ろを向くとひょっこり顔を出す慈尾奈。

 身体を仰け反っているのか、顔は上向きだ。

「何食べたい?」

「麺以外で」

「了解ー」

 こんな適当な会話を弐祐が出来るのはきっと、黒劔家だけなのだろう。

 それを嫌な顔せず受け入れるのもきっと黒劔家だけだ。

 ニヤッと笑みを見せて、慈尾奈はキッチン付きのリビングへと戻っていく。

 リビングのドアの向こうから「ちゃんと着替えなよー」と声がした。

 そう言った気遣いをするのは本当の家族のようで、弐祐は少しだけ心が休まった。

 3sldkの二階建て、全ての部屋が六畳以上あると言うゆとりのある家が弐祐の家であった。

 父親が科学者として名を馳せており遺伝子研究や人間の生態についての論文で賞をとっていた。

 その事については幼少期、それも七歳を迎えたばかり程度の子供だったので弐祐は詳しくは知らないが、おかげでお金に困った暮らしはしていない。

 勿論、無駄遣いをするつもりもない弐祐の部屋は殺風景なものだった。

 二階に入って左手のドアを開ける、そこが弐祐の部屋だ。

 北の壁側にベッド、東側には勉強机、南にクローゼットとそれだけの部屋。

 北と西の位置に窓があるので全体的に暗い部屋である。

 それに対し他の部屋の窓はほとんど東と南にある為、明るい間取りなのだが、弐祐は移動しようとは思わなかった。

 二階の残り二つの部屋は亡き両親と妹の部屋。両親の部屋は黒劔家姉妹が使っている。

 妹の部屋は今も変わらず十年前と同じ状態で残してある。

 思い出はほとんどないが、雷や大雨が降るとよく妹が泣きながらベッドに潜り込んできたのを覚えていた。

 そして今彼を悲壮に駆り立てるのは、床に落ちた毛だ。

 最近まであった思い出はほんとうに記憶の中に生きるものとして世を去ってしまった。

 どうして自分にはこう不幸な事が起きるのか、疑問でならなかった。

 弐祐のような境遇を持つ人間が少ない事は事実だし、彼よりも酷い暮らしや酷い目にあう人間だっているだろう。

 それを知っても尚、弐祐の目尻には涙が浮かぶ。

 愛される事の幸福、愛されない事の絶望。

 撫でれば相手は答え、抱き締めれば相手は答えてくれた。

 そんな唯一無二の存在が、昨日消えたのだ。

 それを忘れろと言う方が無理な話。

 制服をクローゼットにかけ、Tシャツに短パンと私服に着替えてリビングの準備ができて尚、弐祐は床に落ちた毛を見てじっと思案していた。

 弐祐は頭をブンブン振って、部屋を出た。

 階段を足早に降りて、リビングのドアを開けた。

 リビングとダイニングは互いに見えるようになっている為、慈尾奈の料理姿が目に入る。胸辺りまで伸びる長い髪を後ろで括って、眼鏡を付けたエプロン姿。

 口に咥えた白い棒はタバコに見えるがただのチュッパチャップス。

 中華鍋を器用にふるって料理を炒めていた。

「お、降りてきたね。いつも通り食卓の支度をよろしくね。勿論、手を洗ってからね」

「了解」

 バチコンと料理をしながらウインクをする慈尾奈の姿は年相応には見えなかったが、そういう可愛らしさがあった方が女性はモテるものだと弐祐は思った。

 慈尾奈の言いつけ通り、彼女の横にある流し台で手を洗い、タオルで手を拭いた。

 背後にある食器棚から皿と箸を取り出し、ダイニングテーブルに並べ、もう一度戻ってコップを取りテーブルに並べた。

 未だに中華鍋を勇ましく振る慈尾奈に振り返って弐祐は訊いた。

「飲みものはビールで良いよね?」

「いんや、今日は牛乳にしておこう」

「へぇー? 珍しい」

 生ビールを開け、口周りに髭を作りながら美味い! というのが彼女の恒例なのだが今日は珍しい。

 土日などで昼食から一緒にする時は牛乳を飲んでいるところは見かけるが、夜は決まってビール、それが慈尾奈なのだが。

 彼女も仕事をしているのだ。何をしているか弐祐は聞いた事が無かったが、きっとそれ関連だと察した。

 言われた通り冷蔵庫から牛乳と作り置きしてある麦茶を取り出しコップに注ぐ。

 ここまでしてやっと食卓の支度の完了だ。

 普通、飲み物を注ぐのは料理が出来てからと思うのが普通かもしれないが黒劔家では違った。

「さ、出来たよ」

 狙ったのではと弐祐は常不思議に思う。食卓の支度が出来たタイミングで料理を作り終えるのだ。

 つまりは、食卓の支度が出来るまでは絶対に料理が出てこない。

 この原理を知らなかった幼少期の弐祐は、ご飯を食べるまでに一時間以上かかったものだ。

 それでも出来上がった料理は美味しいのが黒劔家である。

 今回もそれを期待して中華鍋を覗き込めば、慈尾奈が自慢げに鼻を鳴らした。

「私作、青椒肉絲だあ」

 そこには見事な青椒肉絲が出来上がっていた。

 肉は豚肉、中にはピーマンにタケノコ、おまけにえのきも入っているが、ごま油の香りが食をそそらせる。

 ゴクリと涎を飲み込んで、その意思を伝えると慈尾奈は横で嬉しそうに笑みをこぼしていた。

 食卓についた二人は手を合わせ、いただきますを仲良く同時に言って夕食を始めた。

 慈尾奈が学校の話を訊いてくるものだから大した話もない弐祐ではあったが、今日やっていた授業の内容をなるべく隅から隅まで思い出し、適当に慈尾奈に聞かせた。

 面白くもない内容の筈なのに、慈尾奈は優しい笑みで弐祐の話を聞いてくれていた。

 優しい優しい慈尾奈。

 彼女はいつだって優しかった。

 慈尾奈と出逢ったのは他でもない。弐祐が両親を失ってすぐの話だった。

 親族間で弐祐のなすり付け合いが行われている頃、弐祐は家族の葬式で呆然とパイプイスに座っていた。

 これから待っているのは幸せとは程遠い何かであり、今までと同じ幸せを感じることは無いだろう。

 齢七歳にしてそのことを弐祐は実感していた。

 小さな身体にぶつけられる悪意。

 人間のドロドロとした感情の渦。誰も幼い子供を、しかも自分の子でない親戚の子を引き取りたいと言う人間はいなかった。

 両親の両親、つまりは弐祐のおじいさんとおばあさんに当たる人間は運悪く四人全員他界しており、戦時中に亡くなっていたり、病気で亡くしていたりと兎も角弐祐を好意的に引き取ろうという人間はいなかった。

 そうして、子供では割り込めない大人の世界の混沌とした渦がぶつかる中心にいた弐祐は居心地の悪さと家族を失った虚無感で、パイプイスに座りながら、吐いた。

 我慢出来ずに全てを吐き散らかした。

 胸に下げる緑の石が入ったペンダントを握りしめて。

 嘔吐が決定打になったのか、親族達は誰一人近寄る事はなく、遠くで罵倒の限りを尽くすだけだった。

 あんな子供はいらない。育てる余裕があるわけない。うちにはうちの子一人で十分よ。

 嫌でも鼓膜を揺らす悪態にもう一度込み上げてきた胃の中身が喉を通過しようとし口を片手で抑えたその時、当然背中をさすった感触がした。

 驚きのあまり、こみ上げた物は全て引っ込んだ。

 代わりに目玉が飛び出す程に大きく開かれ、その背中をさすった人物を見た。

 優しい顔をした女性だった。

 黒髪は長く、目の前にぶら下がる胸は母親のものを遥かに凌いでいた。

 父親が見れば即座に飛びつきそうな美女がそこにいた。

『辛かったね……』

 同情なんかいらない。

 弐祐は、背中をさすって優しくかけられた言葉にそんな反骨精神を抱いていた。

 どうせこの人も引き取ってはくれない。なんだかんだ優しい言葉をかけて周りからいいように見られるために芝居をしているんだ。

 やさぐれた弐祐の心は女性の言葉を真っ向から跳ね返し、そして彼女の手を払った。

『やめてよ。家族でもないのに』

 酷い目だった。それは死を決意してもおかしくない程に、絶望に沈みきった瞳。

 だが、そこに光は射す。

『私が、家族じゃ不満かな』

 たったその一言によって、弐祐は救われたのだ。

 家族でもない、ただ事故現場に居合わせた他人がかけたその言葉によって。

「ご馳走さま」

 ふと気付くと目の前で慈尾奈が手を合わせていた。

 皿の中身は空っぽであった。

「あ……、早いね」

「弐祐ちゃんが遅いのよ」

 と言うと慈尾奈は食器を持って流し台まで行った。「さっさと食べるのよー」という彼女の声に反応して、弐祐は料理をかきこんだ。

 弐祐は引き取った理由を聞いた事があった。慈尾奈も同じく両親を亡くし、その頃は高校生であった慈尾奈は歳の離れた妹と共に二人で生活する事を余儀なくされた。

 子供二人を引き取る余裕がある親族は何処にもおらず、高校生でバイトも出来るからと慈尾奈から断ったという話。

 そこから二人の生活が続き、職について落ち着いた頃交通事故に遭遇した。

 そして同じ境遇にいる弐祐を放っておけず、暮らす事となった。

 弐祐と違って、火災による事故だった為家がない黒劔家は存在しない。

 慈尾奈の友達の家にお金を払って住んでいたが、柱井家が出来た事で黒劔家は今柱井家に住んでいる。

 家目的で弐祐を引き取った訳ではない。しっかりと家賃代は慈尾奈は払っている。

 弐祐は要らないと言っているのだが、慈尾奈はそう言ったところはしっかりとしていて、払わないなら勝手に払うわと、強引に家賃を払っていた。

 と、そんなこんなで黒劔家と弐祐との関係が生まれた訳だが、今考えると舞猫は気まずくなってしまった自分との雰囲気を変える為に友達の家に行ったのかもしれない。

 慈尾奈が作った青椒肉絲を食べながら、明日しっかり謝ろうと弐祐は思った。

 青椒肉絲を食べ終わり、手を合わせごちそうさまを言い、食器を流し台に持っていくと流し台で電話をしている慈尾奈が立っていた。

 慈尾奈にしては珍しく目を丸めている。驚きと焦燥でみるみる強張って蒼ざめている。

 話は聞かないようにしているから、弐祐の耳には届かないがそれでも。

「そんな!」

 彼女が発する珍しい怒鳴り声は、聞き逃す事は出来なかった。

 慈尾奈は携帯の通話終了ボタンを押すと、青白い顔で振り返ると、早口で言った。

「ごめんね。会社で早急に片付けないといけない仕事ができちゃって、後頼むわね」

 早口で言いながらリビングに向かい、速攻でスーツ姿へと変わるその手際はやはり社会人が成せる技なのだろう。

 弐祐は感心しながら、言った。

「分かった。いってらっしゃい」

「ありがとう」

 彼女はそういうとリビングの扉を開けて出て行った。


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