60.愛してなんかない

 それより数年前のブライトウェル家にて―― 


 繊細なミルクプラチナの長い髪が、アリーシャの動きとともふわりと優雅に揺れた。

 十歳のルイス少年は、骨董品にはたきをかけるふりをしていた。しかし彼女が後ろを向いた時にだけ、その美しい姿をそっと盗み見ていた。


「ああ、ミリー。商店街に行くの? ちょっと待って、出したい手紙があるの」


 メイドの少女にはきはきと声をかけながら、アリーシャはいそいそと部屋を出て行った。


 ルイスは伏せがちだった顔をあげ、扉からその麗しい後姿が消えていくのをじっと見つめていた。女主人の鈴のような声さえも、しずかに耳に留めているようだった。


 アリーシャは、孤児の養育者としてすぐれた手腕を発揮していた。主に孤児に新しい里親を見つけるために活動していたが、それぞれの気性合わせて、やり方を変えた。

 ルイスのように愛想がなく心を開かない子どもで、里親とうまくやっていくのが難しいと思われた場合には、教育をほどこして働く場を与えた。


 ルイスはもともと機転の利くたちであったため、使用人たちの間で重宝される見習いとなっていた。

 アリーシャは自分の仕事に自信を持ち、身寄りのない孤児や、家庭に恵まれない子どもの保護活動に熱を入れるようになっていった。

 彼女は生き生きとしていた。活動を楽しんで見えた。まるで自分の生きがいを見つけたように。


 アレックス・ヒースは適当な手つきでその辺を掃きながら、ルイスのようすを気にかけながら見ていた。


 アレックスは、ルイスの次に拾われた子供だった。

 口数が少なく、愛想はなかったが、屋敷での仕事は真面目にこなしていた。

 この屋敷に拾われる前は、路上で吸殻を拾っては、貧民街の民に向けて販売していたという。ついでに自分でも吸っていた。空腹を紛らわすためだという。


 アリーシャの前では吸うことはないが、いまもやめられず、陰で吸っていることをルイスは知っていた。煙の臭いをさせているアレックスに気づいて、アリーシャも悲しい表情をすることはあるが、なにも言わなかった。

 

 アリーシャの後ろ姿が扉の向こうに消えてしまっても、ルイスはまだそちらを見ていた。

 その忠犬のようなさまを見て、アレックスは、箒を持つ手を止めた。


「なあ、ルイス」


 声をかけると、ルイスはふっと夢から覚めたような表情になった。


「なに?」


「また、お嬢様にみとれてるのか?」


 アレックスがそう言うと、ルイスは顔を赤くして友を一瞥し、調度品のはたきがけを再開した。


「みとれてなんかない。ただ、ちょっと、たまたま見てただけだよ」


 アリーシャの前では決して出すこともない、不機嫌を隠そうともしない低い声だ。

 アレックスは切れ長のダークブラウンの目を細めると、感心したように言った。


「でも、気がつけば見てるよなあ。前からまっすぐ見ることは少ないけど、よくああやって後ろから盗み見るように……。健気だよなあ」 


 ルイスは気分を害したように答えた。


「ちがうよ。そういう意味で見たことはない。大きな恩のある方だし、ふかく尊敬しているからだ。ときにはお姿を拝見したってふしぎではないだろう」


 ルイスは一昨年、アリーシャに拾われたときに八歳という推定年齢を与えてもらった。だからいまは推定十歳である。

 たらいまわしにされた養家では、誰も彼の正確な年齢などおぼえている者はいなかったからだ。ハーヴィという名字さえも忘れかけていた。


 アレックスはひとつ歳上だった。屋敷に来たのはルイスが先だが、不愛想なアレックスは年下の先輩を敬うことはなく、弟のようにぞんざいかつ親しげに扱った。


「俺たちだって拾われた恩はあるけど、お前だけ異常なんだよなあ。そりゃ、あれだけ美人でスタイルも抜群だし、俺だって見てたいけどさ」


「やめろ」


 ひやりと、月の光を浴びたナイフのような冷たい声で少年は制止した。


「あの方にそんないかがわしい目を向けるな。命の恩人だろ」


「へいへい」


 アレックスは軽く返事をすると掃除を再開した。

 この件に関してのルイスは、つつくと怖い。


 使用人仲間たちの中で「ルイス・ハーヴェイは、アリーシャお嬢さまを好いている」というのは共通認識だった。とくに、アリーシャに拾って育てられた若い使用人たちは、みなそう思っていた。

 ルイスの態度が、誰が見ても、そうにしか見えなかったからだ。

 アリーシャの後ろ姿に、ぼーっと見とれているルイスを見ることは、日常茶飯事だった。名前を呼ばれるだけで、耳まで赤くして嬉しそうな顔をしていることも。


 しかし、ルイスが認めることはなかった。それを指摘すると、ルイスは相手が誰であろうと激怒し、否定した。

 彼は普段、あまり感情を面に出さない物静かな少年だったから、その様子は異様に目立った。


 むきになって否定するだけでなく、彼自身、そんなことはないと信仰のように信じているようだった。分不相応な恋心など抱いていないと。

 ルイスは自分のことを、他人に愛情を抱くことができない人間なのだと思っているらしい。


 恋心を認めないルイスを、使用人たちは怪訝に思った。

 あんな一途な目で、お嬢様の後ろ姿を眺めておいて!


 恋をしたからといっても、立場がちがいすぎるため、そうではないことにしておいたほうがよいのだろう。実らない恋を抱えても、つらいばかりだから。

 そう言いあって、みな、納得をしあっていた。


 でも、それでいいのだろうか?

 アレックスは思う。ルイスの心には歪んだ部分がある。

 それを見ないようにして生きていくことは、彼のためになるのだろうか?


 そのとき、アリーシャがいそいそと部屋に戻ってきた。


「間に合わなかったわ。ねぇ、ルイス。悪いけど、このお手紙を出して来てくれない」


 少年の顔がパッと上気した。アリーシャから自分の名前を呼ばれた幸運を、噛みしめているかのようだった。


「はい、もちろんです。お嬢様」


 赤みのさした顔で手紙を大事そうに受け取ると、ルイスは使いを果たすべく軽やかな足取りで部屋を出て行った。


 アレックスは「ほら」と言いたげな目で彼を見送ると、深いため息をついた。

 ルイスほど聡明な男が、自分の感情を理解できないなんて、そんなことがあり得るのだろうか。

 それとも、本当はわかっているのだろうか。

 わかっていて、それでも認識できないなんてことがあるのだろうか。


(わからん。どっちにしろ、めんどくさい心だな)


 アレックスは首を横にゆっくりふりながら、自分の持ち場の清掃に戻っていった。

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