55.「好き」を知らない子ども
近頃とみに成長したように見えても、彼女はちいさかった。ほっそりした肩に、ちいさな頭がのっている。顔色は血の気が引いて白くなっている。
彼女はいまでも、ルイスが離れていくことを、異常なまでに怖がる。母との別離が、大きな傷となって心に残っているのだろう。
こんなに華奢な体で、胸に重い痛みを抱えているのか。この顔を晴らすことのできないのが悔しい。
アリーシャに誓ったのに。あなたの代わりにリーゼロッテだけは守り通すと。
こんなとき、彼女ならどうしただろう?
そう思った直後、ちいさな肩を抱きしめていた。
「なにかを好きな気持ちは、その対象がなんであれ大事にしてください」
そう言いながら、リーゼロッテを抱きしめる腕に力をこめた。
結婚を拒否しながら、「好き」な気持ちは大事にしてくれという。矛盾しているようだが、これだけは伝えたかった。なにかを「好き」な気持ちは尊いものだから。
リーゼロッテには好きなものを持ってほしいし、それを大事にしてほしい。それが許されるかどうかは、また別の問題だ。
自分の「好き」を大切にできなかった子どもの心が、どんなにいびつに歪んでしまうかを、ルイスは身をもって知っていたから。
忘れな草色の瞳がじっとルイスを見つめていた。長い白金のまつげが、彼の視線を絡めとろうとするかのようだった。
うそやまやかしは許さないという目に見えた。ここで適当な誤魔化しを口にすれば、彼女からの純粋な信頼はもう戻って来ないかもしれない。
ルイスには、己のことを語りたくない事情があった。
だけど彼女になら、すこしだけ……誰にも語ったことのない本心を語ってみようと思った。
「本当です。好きな気持ち自体を否定しないでください。子どものころから自分の気持ちを大切にしていないと、自分がなにを考えているのか、なにを好きなのか、わからない大人になってしまうのです。そうなれば、つらい思いをします」
青い瞳が何度もまたたいた。リーゼロッテは青年の言葉をよく聞いて考えようとしているようだった。でも、よくは理解できないようだ。
「僕は、よくわからなかったんです。人を愛するということが。だから、あやまちをおかしました。己の愚かさで罪のない人を傷つけ、自分の心を蔑ろにした罪で自身も傷つきました」
すこし、語りすぎただろうか。だが、これは伝えておきたかった。
リーゼロッテは「好き」な自分の気持ちがいけないのかと悩んでいる。それは違うのだ。彼女は自由になにを好きでいてもいいのだ。
リーゼロッテには自分の抱えているような苦しみを味わわせたくはないから。
ルイスが幼い頃に欲しかったのは、食べ物と寝る時間、体を横たえる場所だった。それは生命として渇望したものであり、心が好いたものとは言えなかった。
恐怖と憎しみに満ちた幼い胸は、なにかを好きだと思うことがなかった。したいことや夢もなかった。養父母の怒りをかわないことだけを願って怯えて生きてきた。
人の顔色を伺いながら生きてきた人生は、子どもだったルイスから、「自分の感情を大切にする」「好きなものを好きだと感じる」という感覚を奪い取った。
公爵家に拾われ働き始めてからも、どう生きたいかではなく、どうすべきかを考え、目上の人たちや同僚の顔色を読みながら生きてきた。
交際や結婚などは、就職と同じように生きる手段としか捉えていなかった。社会的地位を得て、平穏に暮らすための手段だと考えていた。
だから愛などどうでもよかったし、耐えがたくいやな相手でなければ誰でもよかった。
しかし、それはまやかしだった。自分で自分のことが理解できていなかったのだ。
いつも自分に対して不誠実な態度でいたから、大事なものに気づかなかったのだろう。
その代償を、「彼女」が亡くなったときに、一気に支払うこととなった。
本当は、ずっと熱烈に愛する人がいた。しかし、その人を好きでいたら立場的にひどく苦しい思いをするから、心を騙したのだ。想いを殺しつづけたのだ。
愛する人が亡くなってからその感情に気づくのは、地獄だった。あらゆる負の感情が一斉に襲ってきて彼を打ちのめした。自分の心を誤魔化していた罰だと言わんばかりに。
「僕は、誰のことも好きにならない人間だと思っていたんです。でも、ある人がこの世を去ったとき……。ひとりだけ……。愛していたと気づきました」
腕の中のリーゼロッテがきゅっと身を動かした。動揺しているのか。
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