55.夕空の心
今朝から、リーゼロッテの元気がない。口には出さなかったが、ルイスはそのことばかり気にしていた。
お茶の時間に提供されたクッキーにも、ほとんど手をつけなかったらしい。
居間のソファの側、絨毯の上で膝を抱えている彼女の隣に、「少しよろしいですか?」と声をかけながら腰をおろした。
ふたりはしばらく並んで座っていた。
「あまり元気がないみたいですね」
ルイスはようやくそうたずねた。彼女の気持ちを落ちこませているのが自分であるなら、言葉を選ばなくてはならないなと思いながら、慎重に。
リーゼロッテはゆるゆると小首をかしげた。ミルクプラチナの髪がさらさらと流れる。
「きょうはずっと、あまりたのしくないの。こころが、ゆうぞらみたいだわ」
そうつぶやいたリーゼロッテの青い瞳には、年齢に似つかわしくない大人びた愁いがただよっていた。
「ずいぶんと文学的な表現をしますね」
苦し気な子どもの表情を見るのは心が痛んだが、ルイスは微笑みながら、その言葉のセンスを褒めた。
リーゼロッテは、背を丸くして、自分の膝を抱えていた。まるで、ちいさくちいさくなりたいかのように。隣にはパルムがいる。
「どんな気持ちなのか、もうすこしだけ聞いてもいいですか? リーゼが楽しくないと、僕も悲しいです」
リーゼロッテは胸の内の苦しさを、どう表現しようか迷っているようだった。
両手で囲うように円を作りながら、それを胸の前に持ってきた。
「むねの中に、ちいさなまりがあるの。てんきがいいときのおにわの光のように、きれいにぴかぴか光っているまりよ。でもね、ときどき、くろくなって、とてもおもたくなるの。むねがぎゅっとなって、ふあんでくるしくなるの」
こんなことも言えるようになったのかと、ルイスは内心子どもの成長に目を見張った。
出会った頃のリーゼロッテは、まだ己の感情をうまく表現できなかった。誰かに苦しみを訴えることもできずに、ひとりでつぶれてしまうような子だった。
それは最も怖れていることだったから、こうやって自分に訴えてくれたことに安堵した。
もちろん喜んでばかりもいられない。リーゼロッテが苦しみを抱えているのだ。
その落ちこみが、結婚の申し込みを断られたことに由来するのは明らかだった。承諾はできないが、それでいて落ちこませないように、うまく立ち回らねばならない。
あらゆる方面に気を配りながら。
それは決して愉快な作業ではない。
しかし、やらなければ。
「どうして心に不安なまりがあるのか、聞いてもいいでしょうか。原因に心当たりはありますか?」
家庭教師は優しく尋ねた。
幼女は頭を横にふった。拒絶が感じられる仕草だった。
「とてもいいことをかんがえたのに……。わたしはずっとルイスといっしょにくらしたいわ。なのに、どうしてけっこんがいやなの? わたしが、うつくしくないから?」
「まさか。いやだなんて思ったことはないですよ。それにリーゼは美しいです」
明るい声でそう答えたが、子どもの顔は晴れない。
「え本をよんでいたら、きれいなおひめさまはみんな、きんのまきげをしているってきづいたの。わたしがきれいなまきげじゃないから、いやなの?」
どうやら美しい巻き毛の姫君が愛される絵本を読んで、自分と比較して自信をなくしてしまったらしい。
「巻き毛でないお姫さまもいますよ。リーゼだってこんな綺麗な髪をしているのに、どうして愛されないなんてことがあるでしょうか。それに、髪の毛の美しさで愛されるかどうかが決まるわけでもないですよ」
「ルイスは、やさしいの」
リーゼロッテはものうげに言った。
「でもなにかかくしてるの」
予想外の言葉に、ルイスは少々動揺した。その通りだった。
リーゼロッテと結婚などありえない。理由はいくつもある。社会通念上の問題だけではない。
彼女がアリーシャの娘であること、そしてルイス自体の心の問題にもあった。
しかしそれらは、ルイスひとりが抱えこんで解決するべき問題である。この幼い主に説明するつもりはなかった。
ルイスは、大人としての模範的な回答をさがした。
「結婚というものは、法的な契約であり、大人がするものなのです。ですのでリーゼはいまはたくさん遊んで、寝て、食べて、お勉強もしてください。そうして考える力を養ってください。大人になったときに、またあらためてよく話しましょう。不安にならないでくださいね。僕はずっとあなたの側にいますから」
最後の一言を口にするときに、声が揺らいだ。断言すると、うそになる。忠実であるべき主をだましている。
これは彼が決められることではないのだ。ジェレミアの一存で決まることだから。
リーゼロッテの瞳は、すこしも納得したようではなかった。それでも「ずっと側にいる」という言葉を聞いた瞬間、家庭教師の服の裾をつかんでいた。
「ほんとうね? ぜったいよ」
そう懇願しながら、彼女の瞳には翳りが揺れていた。
ルイスのごまかしを、敏感に感じ取っているのかもしれない。
「ルイスとけっこんしたいって、よくないこと? すきだっていったら、めいわく?」
「いいえ。それはちがいますよ」
ルイスが「ソファに座って話しませんか?」と提案すれば、リーゼロッテは素直にそれに習った。
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