49.心の中の黒い虫
ウェザリー本家だって、母が存命のころは、そんなに訪れるのがいやではなかったのだ。いつだって守ってくれる母と一緒ならば、怖くなかった。
いや、ちょっとは怖かったけど……。怖かったけど、我慢できるほどだった。
母が亡くなると、親族は露骨にリーゼロッテをいじめるようになった。カレルの町の高級住宅街に居を構えるウェザリー本家の大きなお屋敷は、いまやとても恐ろしい場所となった。
ウェザリー家で受けつけられた疎外感と劣等感は、自分がどこへ行っても受け入れられないのではないかという怖れを生んでいた。
兄も兄の妻も、姉たちも、兄の子どもたちも、みな商人の一族らしく弁が立ったし、自信のある振る舞いをしていた。リーゼロッテは、自分が親族からきらわれるのは、そういう立ち振る舞いができないからだろうと思っていた。醜くて臆病で頭が悪いからだと。
兄の子たちのようなはつらつとした子どもこそが、どこへ行っても好かれるのだろう。ブライトウェル家の親戚からだって……。
そんなことを思うと、やはり行くのは怖い。
断ろうとして、ふと……ひとつのアイデアを思い付いた。
ちょっとずるいことだと思ったけど、思い切って口にしてみた。
「ルイスが、けっこんしてくれたら、いってもいい」
さすがにまっすぐ彼の目を見ては言えなかった。「いってもいい」がひどくちいさな声になってしまった。ひきょうな言いかただったわ、とすこし後悔もした。
でもルイスが一緒なら……。ルイスが家族としてともに来てくれたなら、怖くない気がする。母がいてくれた時のように。
「現公爵さまの大事な姪御さまと使用人が結婚ですか。もしそうなれば……。みなさんさぞ驚かれるでしょうね」
ルイスは笑いながらかわした。まただ。「いやだ」とはっきり断ることはないが、承諾することも決してない。
カティヤの素晴らしい提案を真に受けて(本当に素晴らしかった。何度でもキスしてあげたいくらいだった)、リーゼロッテはたびたびルイスに求婚をするようになった。
一生ずっとふたりで暮らせたら、とても幸せなことだと思ったから、迷いはなかった。
リーゼロッテのことを愛しているはずの家庭教師は、
『ありがとうございます』
と笑顔を崩さない。
しかし二言目には、
『ですが、結婚とは大人がするものであって、そのための判断力をこれから……』
と、なんやかやむずかしい理屈を連ねて、リーゼロッテを煙に巻こうとするのだ。
リーゼロッテは落胆してしまった。世界はなんてむずかしいのだろう!
きっと、彼もリーゼロッテのことが大好きだから、すぐに承諾してくれると思ったのに。
子どもだから駄目だというのなら仕方がない。いつか、成長して大人になったときに、また申しこめばいい。
しかし、本当にじっと待っていていいのだろうか? リーゼロッテの心には、不安が巣食っていた。
そんな先のことなんてよくわからない。その頃には、ルイスがどこか遠くへ行ってしまって、疎遠になっている可能性だってある。
母が急にいなくなったように、彼だって突然姿を消すかもしれない。
最近のリーゼロッテの心は、やや不安定だった。
ルイスと暮らす楽しい毎日をうっとりと心に思い描いても、果物を食べる虫のような黒いものが、じわじわと幸福な想像を齧りとってしまうのだった。
リーゼロッテは自分に自信がなかった。兄は自分のことを愚かで気の毒な子だという、兄嫁は醜いという。彼らの子どもたちは馬鹿で醜いという。
そんな自分だから、ルイスも首を縦にふらないのでは、ずっと一緒に暮らすのがいやなのではないかと、勝手に悪い想像をふくらませてしまう。
リーゼロッテは無言になった。悲しい想像をひとりきりでじっと抱いて、螺旋のようにぐるぐると、心が下に下に落ちていっていっていた。
しかしルイスは、子どもの胸の内によくない変化が起きたことを見て取ったようだった。
リーゼロッテの前にひざまずいてその手を取ると、真剣な表情でこう訴えた。
「僕はリーゼを愛しています。心から愛しているから、六歳のあなたと結婚などできないのですよ。いつか大人になったあなたも、きっと今の僕の考え方を支持してくれるはずだと信じています。これだけは信じてください。愛しています」
彼の言葉には、とてもうそとは思えない真摯さがあった。力強さがあった。
嬉しかった。
でも、「愛しています」というのに結婚はしてくれない。どうして「好き」だけではだめなのだろう。まだ自分が幼すぎるためだろうか。あまりにむずかしい。
「うん……。わかったわ」
きっと、じいっと待っているだけでは駄目なのだ。
夢をかなえるために、どんな努力をしていけばよいのだろう。ルイスのような、立派な大人と肩を並べる立場になるためには、なにをすればよいのだろう。
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