34.二人の女性への想い

 青年は冷たい水で顔を洗い、着替えを済ませると、再度鏡の前に立った。

 職場に向かう前に、使用人としての見てくれに不備はないか確認をする。勤務先の主はアリーシャの残した娘だ。普段に増して不適切な身なりでその前に立つことは許されない。


 身支度を整える間もずっと、過去のことがしきりに思い出されて仕方がなかった。先ほどの夢が気になっているからだろう。

 あの夢の中でアリーシャはなんと言っていたのだろう。


 アリーシャはリーゼロッテになにを求めているのだろう。 

 彼女をどう育てたかったのだろう。


 夢はしょせんは夢だ、本物の彼女の気持ちではない。そう考えながらもなお思い出したかった。

 リーゼロッテの今後に関することは、幻の彼女にでもすがりたいほど知りたい内容だったからだ。


(ルイス、だいすき)


 リーゼロッテ。

 日が暮れて別れの時間が近づくと、名残り惜しそうに家庭教師の手を握っていたあの姿。


(ゆうがたは、ゆっくりしてからかえってね。でも、あさは、できるだけはやくきてね)


 かわいいリーゼロッテ。

 愛嬌のあふれるやわらかな微笑みが母親によく似ていた。ともに過ごす日をかさねるほど愛おしさがましていく。あの子を守りたい気持ちはうそではない。


 だけど、胸を張ってまっすぐに向かい合うことはできない。

 幼い女の子は家庭教師のことを、自分のために存在する保護者のように信じてなついている。そうではないのだ。


 アリーシャの訃報を聞いたときから、ルイスの世界は一変した。目も耳も舌も死に絶えたかのように働きをやめ、この世のすべのものは価値を失った。

 世界はふたたび灰色になった。薄い鼠色の空は怨みの涙を流し、往来の猫は呪いの言葉を吐き、庭の駒鳥は哀しみの歌をうたった。

 色彩のない静かで虚しい地獄が生きている限りつづくのだと思った。


 しかしウェザリー別邸からの手紙が彼の虚しい日々を一変させた。アリーシャの幼い娘が病に伏し、近いうちに母親のあとを追うかもしれないと。それを聞いた直後、得体のしれない熱に駆られて動いていた。

 ブライトウェル公爵に願い出て長年勤めた職を辞し、ウェザリーの扉を叩いていた。


 なぜリーゼロッテの助けになりたいと思ったのか、いまだに自分でもよくわからない。

 ただルイスは自分のことを、会ったこともない気の毒な女の子の命を救うために、己のすべてを捨ててまで尽くすような博愛精神にあふれた人間ではないと、客観的に分析していた。


 あの子の存在は、すべての希望を失った己の前に垂らされた、一すじの金の糸だったのではないか。

 空虚な地獄からはいあがるための。かすかなつながりを手に入れるための。そのためのただひとつの手段であって目的ではなかった。すくなくとも、最初は。

 

 身支度をおえて部屋の扉を開けると、階下からほんわりと朝食の匂いがただよってきた。チーズを焼いた香ばしい匂いと、熱をとおしたトマトの香りが食欲をさそう。

 階段を下りながら、もうひとときだけ不遇で幸運な男の子の記憶をたどっていたかった。あれは公爵家に拾われたばかりの頃のこと、公女はまだ十代半ばだったはずだ。

 威厳のある大人の女性に見えていたあのときのアリーシャが、その幼さであったことが信じがたい。なんと大人びて見えたのだろう。


 いまの自分は当時の彼女より歳をとってしまったが、精神的な成熟度においては追いつけていない。

 きっと、生涯追いつけることはないのだろう。


 それでもアリーシャから受け取ったものを、できる限りリーゼロッテに渡したい。知識も経験も、これからの彼女の力となるものは、すべて。

 きっとそれが幼い娘を残していったアリーシャの願いだろうから。


 そしてリーゼロッテを通じてのみ、かつての孤児はアリーシャとつながっていられるから。

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