33.記憶の中の微笑み
雪の降る日のこと。ルイスは町中で倒れて凍死しかけているところを、馬車で通りがかった公爵家の娘に拾われた。
彼女は汚れた子どもを公爵家のベッドに寝かせて、医者を呼んだ。風呂で体を洗い、清潔な衣服を着せ、温かな食事をあたえてくれた。
ふわふわの羽根布団。葡萄酒色の厚い絨毯。
壁にかけられた風景画。繊細な装飾の施された調度品たち。
そこは、見たこともない世界だった。
ルイスは当惑し、警戒したが、逃げ出すことはなかった。体も弱り切っていたし、女性の差し出してくれる食事は恐怖心を上回るほど甘美なものだったから。
赤の他人を己の屋敷に住まわせて、やさしく接してくれる彼女の意図が、一向に理解できなかった。そんな人には出会ったことがなかったからだ。
アリーシャは子どもの体調が安定すると里親をさがそうとしたが、一向にうまくいかなかった。
過去の経験からルイスは養父母というものに恐ろしいイメージを抱いていたため、恐怖心からいっそう心を閉ざしてしまったからだ。
まるでおびえきった野良猫のようだった。よその家で心穏やかに暮らせるようになるまでには時間が必要だと思われた。
そこで、彼女は父である当時の公爵にかけあって、ルイスを屋敷に置いてくれるように懇願した。
すんなりと了承を得られたわけではなかった。しかし粘り強い交渉の結果、とうとう「素行がよく働き者の子どもであれば、使用人見習いとして置いてもかまわない」という許しを勝ちとった。
すぐにアリーシャは、自ら男の子の将来を見据えた教育をはじめた。
食事の時のマナーを教え、身だしなみや言葉づかいに気をつけるように言い、勉強も教えた。
子どもはますます戸惑った。
自分のような貧しい孤児が、身なりを気にして学問を身につけて、それがなんになるのだろうと。
いままでは哀れでみじめなようすをしているほうが、生きるのに都合がよかった。養父母の機嫌を損ねないように身をひそめている時も、道行く人に小銭を恵んでもらう時も。
『僕のような街頭の子がどうどうとしていたら、よけいに悪く言われる……言われます……』
口に慣れない丁寧な言葉を探していた。街頭の子とは、保護してくれる者がなく路上で寝て暮らす子どもたちを意味する言葉だ。
いまだに目を合わせようとしない彼の弱々しい言葉を、アリーシャは複雑な表情で聞いていた。
「ねぇ、ルイス」
かすかに甘美な吐息が聞こえる。
「いままでは誰もあなたを守ってくれなかった。大人が子どもに渡すべきものを渡さなかった。でも、これからはちがうの。自分の行いで自分の将来を変えることができるのよ」
そこで言葉を句切り、彼女が手を動かすのが鏡越しに見えた。
(ぶたれる)
咄嗟に身をすくませる。だが公女の手は、彼の頭に雪のようにふわりとのせられた。いつくしむようにその手はゆっくりと黒い髪をなではじめる。
「人にとって最も大切なものは、身分や家柄ではないと私は思っているわ。いくら高貴な家に生まれても心が貧しくては、とてもその人を尊敬することはできないもの」
暖炉の火が爆ぜた。驚いてまた体をこわばらせる。
あれも寒い日だった。
「もしまたあなたの出自をそしる人がいたとしても、なにも恥じることはなく背筋を伸ばしていなさい。そんな自分を誇りなさい」
勇気づけるように、白い手が何度も子どもの頭をなでた。
「あなたのこれまでの人生が、どんなに大変だったか。勇敢だったか。そんなことを想像もしないで、その過去を馬鹿にする人がいたなら愚かなことだわ」
アリーシャはそう言い、うろたえるルイスの体に手を回してぎゅっと抱きしめた。
鏡の中の彼女は、おだやかに微笑みながら、子どもの頭に頬をくっつけた。
「私も誇らしく思うわ。あなたのことを」
やわらかい感触に驚いて、なにも言えないまま固まっていた。誰かに抱きしめてもらったのは初めてのことだったから。
公爵家のベッドも枕も、どこまでも沈んでいきそうなほどやわらかかった。だが公女はさらにしなやかな腕をしていた。
その時ルイスは、これまでの自分が不幸な子どもであったことを知った。ずっとひどく飢えていたことも。
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