32.アリーシャとルイス

 なつかしい声だった。


『リーゼロッテはほんとうに……ね。……は……といいわね……』


 夢の中のアリーシャが紡いでいたのは、たしかそんな言葉だったと思う。娘に向けて、なにかを語りかけていたようだった。


(やはりリーゼのことを気にかけておいでなのか)


 そう思った、直後。

 ドアをノックする音とともに、ルイスの意識は夢の世界から現実に引き戻された。同時に、見ていた夢の記憶もかき消えた。 


 「ルイスさん、起きていますか?」


 かわりに、おっとりとした上品な高齢の女性の声が部屋に響いた。家主のメイブ夫人だ。


 仮住まいである二階の部屋には、カーテン越しの薄明かりが満ちていた。

 スズメの鳴き声に合わせて、窓枠に乗るカチャカチャという軽やかな足音も聞こえる。鈴を転がすようなスズメたちのさえずりは、どこかリーゼロッテが遊ぶ時の愛くるしいはしゃぎ声を思わせる。


 朝か。

 ルイスはけだるく身を起こした。先ほどまで見ていた夢の内容が気になっていた。詳細は思い出せないが、アリーシャとリーゼロッテに関わるものだったはずだ。

 どんな内容だっただろう。おだやかなアリーシャの声だけが耳に残っている。


 ここは下宿先の屋敷の一室。この民家には現在、高齢の女性がメイドとともに暮らしている。子どもたちはみな巣立ち、夫は一昨年に亡くなったという。

 二人暮らしには家が広すぎるため、もとは娘が使っていた部屋を貸し出すことに決めたらしい。


 ウェザリー家で働き始めた者だと言えばあっさり信用してもらえた。月夜の漣邸からそれほど離れていない場所に、格安で部屋を借りられたのは幸運だった。


「お仕事に遅れますよ。トマトのスープとじゃがいものチーズ焼きがありますから、ちゃんと食べてくださいね。また朝ごはんを抜いたりしてはだめですよ」


 親切な彼女は朝に弱いルイスを息子か孫かのように気にかけて、なかなか起きてこないに日はこのように声をかけてくれる。


 ドアを開けて軽くお礼を述べながら水差しを受け取り、洗面ボウルに冷たい水を注いで、身支度を整えるべく鏡に向かい合った。


『――まっすぐ背を伸ばして、いつも身だしなみを清潔にして、きれいな言葉を使いなさい。そうすればもうあなたは貧民窟の孤児ではないわ』


 遠い昔の光景が胸によみがえる。

 あの日、ブライトウェル家の一室にある大きな姿見の中には、暗い表情でうつむく男の子と、陽の光にとけてしまいそうな白金の髪をもつ女性とがいた。


 リーゼロッテが恋い慕う母・アリーシャは、幼いルイスにとっても、はじめて親同然の愛情をくれた人だった。

 母と呼ぶにはいささか年齢が近いし、なにより彼女は公爵家の令嬢であり身分がちがいすぎる。常に敬意をもって接することが肝要であると考え、必要以上に親しみをおぼえないように気をつけていた。


 それでも、もし自分に母親というものがあったなら、こんな感じの心地よい声と毅然としたまなざしを持った女性だっただろうかと想像してみることはあった。


 いまでも朝、鏡に向かう時には必ず彼女からもらった言葉を思い出す。もう十年以上にもわたる習慣となっていた。

 

(……背を伸ばして、身だしなみは清潔に、きれいな言葉……)


 心の中で、まじないのように唱える。

 目の前の鏡に映る姿は、もう痩せたちいさな男の子のそれではない。それでもあのときに贈られたアリーシャからの言葉は、青年となった彼をいまもかたちづくっている。

 昨日のことのようにおぼえている。そっと両肩におかれた手の感触さえも。


 


 ブライトウェル公爵の屋敷でともに暮らし始めても、ルイスは彼女の顔を見て話すことができないでいた。

 すこし前まで町中でごみを漁り、物乞いをしていた少年にとって、アリーシャという名前のこの容色麗しい公女は、同じ屋根の下にいようと隣に並んで立っていようと遠い世界の人にしか思えないのだ。


「ずいぶんすっきりしたわね。よく似合ってるわ」

 

 伸び放題だった子どもの黒い髪をこざっぱりと整えて、姿見の前でうれしそうに語りかけてくる公女は、自分の技量に満足したようすだった。

 だが男の子のほうは視線と手の置き場に困っていた。落ち着かない目線を床にやりながら、指を引っ張ったり組んだりして、感情のはけ口を求めるようにしきりにいじっていた。


 ルイスは物心ついたときには孤児であった。いくつかの貧しい家に引きとられ、もてあまされ、また他にやられた。そのころの記憶はない。

 気がついたときには酒浸りの亭主と、病的に激昂する癖のある陰湿な妻と、大勢の騒がしい子どもたちとともに、粗末な小屋で暮らしていた。

 だが、彼らのことを家族だと思ったことはない。

 

「役立たずのガキなんか誰も欲しがらねぇんだよ」と養い親はたびたび養い子を罵倒した。ルイスだけはテーブルにつくことを許されず、床で食事をした。


 養父母は幼い男の子に家事と子守を命じ、まともに寝る間もないほど働かせた。自分たち家族が寝ている時に赤子が泣きだすと、腹を立てて彼を殴りつけた。

 妻は亭主に殴られるたびに、腹いせに養い子を箒や火かき棒で打ちすえた。子どもたちも両親に倣った。


 罵声と暴力とが日常だった養家で、呼吸をすることすら怖れるようにして生きる日々は、耐えがたいほど永かった。まるで数十年はそうやって暮らしていたかのように。

 いよいよ耐えかねてそこを飛び出したあとも、灰色の町はなにも持たない子どもに厳しかった。

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