31.恩返しだと……?
公爵家の従僕が転職してきたと聞いたときも、ボイド夫人はさっそく嬉々として、しかしむっつりと不機嫌極まりない表情を浮かべて構いに来た。側仕えのメイドに支えられながら杖を突いてぼちぼちと歩いて来ると、すぐに喧嘩を売りはじめた。
「子育てもしたことのない若い男が女の子の世話係ですって? 怖ろしいことですよ。さぞ岩みたいにがさつに育つでしょうよ。近頃は世の中がおかしくなってしまっていますね」
新入りが来たと聞いてすかさずこんな嫌味を言いに出てきたのには、同じく新入りに嫌味を言うのが趣味のカティヤですらも忌々しく思った。
奥方が急逝しリーゼロッテが病に寝こんだ時期には、面倒くさいのか責任を負いたくないのか、知らない顔をして部屋にこもっていたというのに。
しかしルイスは、ボイド夫人にも笑顔で同調した。
「まったくおっしゃるとおりです。勉強させていただきながら全力を尽くすつもりではおりますが、若い者だけでは気がつかないことも多くて、恥じ入るばかりです」
カティヤは拍子抜けした。
さすがにルイスも顔色を変えるのではないか、面白い争いが見られるのではないかという淡い期待は裏切られた。
「これからもボイド夫人にはずっとお元気でいていただいて、その豊かなお知恵を授けていただきたいと思っております」
いやいやいや。さすがにそれはあからさまなお世辞すぎるだろう。
それからも彼は聞いているだけでカティヤの口の中が苦くなりそうな、耳当たりのいい言葉を並べて相手の機嫌をとっていた。
あんな陰湿な老女のほめ言葉をさがすくらいなら、地下の貯蔵庫辺りをうろついてるドブネズミを絶賛するほうがどれだけたやすいだろうと思うのだが。
夫人はだまされませんよという険しい顔を向けて、そのあともああだこうだと難癖をつけていた。
だがしまいには丸めこまれて、まんざらでもない表情を浮かべながら部屋に帰っていった。
背筋が冷たくなった。
ルイスはあの気難し屋のボイド夫人さえも懐柔してしまった。
彼に反感を抱いているのは、いまやこの屋敷では自分だけのようだ。もう誰も信じられない。
なぜだ? どうしてあんな心の底の見えない怪しいやつを、みんな信用するのだろう……。
魔法の道具を借りるために大金を都合してきたなんて、その時点で違和感があった。
さらには屋敷の者たちに取り入るために、金品をも惜しみなく使うなどおかしすぎる。たかが使用人の身で。
貴族の屋敷に勤めていても、下級使用人の給料なんて贅沢ができるほどではないはずだ。そもそもブライトウェル家は名家ではあるが裕福ではない。
初対面の女の子のために、己の生活も将来をも顧みないほどの散財を……。
解せない。目的はなんなのだ。
どうしてそこまでリーゼロッテに思い入れるのかと不審に思い、直接ルイスを問いただしたことがある。いずれ国でも屈指の大金持ちとなるであろうリーゼロッテに、下心をもって近づこうとする輩が少なくないのは知っていたからだ。
動揺させて揺さぶりをかけようとめいっぱい怖い目をして睨んでみたが、ルイスは慌てたようすもなく簡潔に答えた。
「あなた方と同じです。僕もかつては奥様の慈善活動に救われた孤児でした。その恩を返したいのです」
その優等生じみた回答を聞いて、カティヤは「やっぱりなにかを隠している」と感じ疑いを深めた。しかしエステルなどはいたく心打たれたようだった。
「わかりますわ。私もそうです。奥様はそれは素晴らしい方でしたもの。お心に報いるために、生涯をかけて誠心誠意、お嬢様にお仕えするつもりですわ」
そう感極まったように言い放っていた。
エステルくらい単純な頭を持っていたら、悩み事も少なくていいだろうなと思う。
(たしかにあたしだって奥様に拾ってもらったけどさ……)
エステル、カティヤ、ミアは、それぞれ幸福とはいいがたい環境にいた子どもで、奥方の慈善活動によって引きとられてこの屋敷で育てられた。文字の書き方から生きるための仕事のやり方をも教えてもらい、彼女が亡くなるときまで側にいた。だから単なる主という枠を超えて慕っている。
しかし、ルイスが「公爵家にいる頃のアリーシャの世話になった」というのなら、彼女が結婚前のことだ。ずっと家族同様に暮らしていた自分たちとはちがう。
長年会うこともなかった恩人の、そのちいさな娘にまで忠義を尽くしたくなるほどの思い入れは、いったいどこから生まれるのだろう。そもそも、そんなものは存在するのだろうか。
そんなことは絶対にありえない、とまでは言えないが……なにかが引っかかる。
あのまぬけな顔のぬいぐるみの魔法を借りるために国営店に払った金は、町郊外に庭付きの一軒家が買えるほどにはなると、エステルからこっそり耳打ちされたことがある。
その資金はルイスがひとりで都合してきた。自分の貯金と知人からの借金でかきあつめたらしい。
リーゼロッテが赤子の時から長年世話をしているエステルなら、たしかに実の姉妹同様の情もわくのもおかしくはない。仕えて数年のカティヤだって、リーゼロッテを本当の妹のようにかわいらしく思ってはいる。
だが、あの男とリーゼロッテの面識はなかったはずだ。
いくら公爵家の紹介状があるからといって、そんなあやしい男を、莫大な遺産を引き継ぐリーゼロッテの近くにおいておくのは反対だ。
恩返し? 気の毒な女の子への同情?
馬鹿馬鹿しい。そんなの、信じるの?
人間なんて自分の欲望でこそ動くものじゃないの?
(あやしすぎるわ。親切そうな見た目のやつにはたいがい裏があるのよ。あたしは騙されないわよ)
最初に顔だけを見て誘いをかけたことは棚に置いて、カティヤは家庭教師への疑いを深めていく。
どうにかしてリーゼロッテの心をあいつから引き離して、ここから追い出せないだろうか……。
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