27.魔法のはさみ


 ルイスは黒い上着の胸部分にある内ポケットから、小ぶりなはさみを取り出した。そして器用な手つきで、子どもの人差し指のささくれを切り取ってくれた。


「はい、いいですよ」


 大きな手ではさみが再びポケットにしまわれた。

 リーゼロッテは手を広げたまま顔の前にかざして、整えてもらった指先をじっと見ていた。

 いつきづいたのかしら? まるでおかあさまみたい。


「じゃあ、そろそろ僕はまた帳簿の仕事に戻りますね。リーゼはどうしますか?」


 わたしもかえるわと言って、いっしょに屋敷に向かいながらリーゼロッテは問うた。


「どうしてはさみがいるってわかってたの? すごいのね。まほうみたい」


 必要なものをちょうど持っているなんて、まるで魔法で心の中を覗いたみたいに思えて不思議だった。

 ルイスはリーゼロッテのほうを見ながらあっさりと答えた。


「たまたまです。リーゼがお花を摘みたいと思った時のために持っていました。棘のある花もありますからね」


 そうだったのか。ルイスはよく気の付く人だと感心した。

 エステルたちだって仕事ぶりを褒めていたし、きっと使用人として優秀なのだろう。


 もうひとつの気になっていたことも問うた。


「ゆびがぎざぎざしていたの、どうしてわかったの?」


 青年は黒い瞳を細めた。


「庭に来た時から、リーゼがなにか指先を気にしていることだけはわかっていました。大切な人のことはよく見ているものですから。肩車の時に近くで手を見て怪我はないようだとわかり、木に登っている時の様子でささくれかなと思ったんです」

 

 そんなに前から気づいていたのかと驚いた。

 たしかに、ルイスはリーゼロッテのことを常に気にかけて、しっかりと見てくれている。母と似ていると思ったのはそういう点が同じだからだ。


 ルイスが「大切だ」と言ってくれるたびに、ほんわりと己に自信がわいてくるようだ。リーゼロッテのことをよく見ているルイスからのほめ言葉は、誰からのものよりうれしい。


 だけど、いいのだろうか。


 ふと、そんな気持ちがした。

 こんなふうに誰かの言葉を待っているだけで、いいのだろうか。


 この年上の友達には自分よりできることがたくさんありすぎて、こういうときにふと遠い存在に感じてしまう。大人だから仕方ないと思っても、なにか心がじれったそうにうずうず身をよじっている。


 自分は……どうだろう? ルイスのことをよく見ているだろうか。

 エステルやカティアやミアのことを、しっかりと見ているだろうか。


 彼らが自分のことを見てくれているほどは、好きな人たちのことをちゃんと見ていないのではないか。そんな気がする。


 考えてみたら、周囲の人たちだけじゃない、自分自身のこともよく見ていないのかもしれない。自分をまっすぐに見つめたことがあっただろうか。

 いつも誰かからもらった言葉をもって己のことを評価していた。


 ルイスの言葉には自信が感じられた。

 彼は物静かに見えて、意外とものをはっきり言う。堂々としていていいなあと思う。

 そんなルイスでも、不安になったり、迷ったりすることはあるのだろうか。悩むこともあるのだろうか。


 もっと知りたい気持ちが生まれた。


 ルイスは、どんなひとなんだろう。

 わたしは、どんなひとなんだろう。


 そっと、リーゼロッテは家庭教師の手を取った。


 薫風月の庭園には、いろいろなものの香りと色彩とが溶けていた。

 バラにライラック、アイリスにフリージア、ハコベにツユクサ、シロツメクサ、カモミールにミント、セージ、ローズマリーにラベンダー、花の蜜、幼い木々、古い幹を覆う苔、木苺にグースベリーにブルーベリー、クロウタドリのさえずり、ミソサザイの羽、空色のシジミチョウ、モンシロチョウの鱗粉、日だまりの芝。

 

 呼吸をするたびに、若い葉の清涼感と花や果実や蜜の甘さとが入り混じったような香りが胸を満たしてくれる。


 遠く蒼穹はおだやかに澄みわたり、エニシダは黄色にけぶっていた。

 リンゴの木の上では、スズメが可憐な足をやわらかな若い枝に預けていた。

 カラスノエンドウの茎をよじ登っていたテントウムシは、頂上に到着すると、誇らしげに宝石箱のような翅を広げた。


 心地のよい午後の空気は、内気な女の子の背中を少しだけ前に押してくれたのかもしれない。

 リーゼロッテの心に、新しい望みがほのかに生まれた。


 わたしも――まるきり別人のように明るく華やかにはなれなくても、もうすこし毅然とものを言える人になりたい。

 やさしい人にもなりたい。大事な人が困っていたら、いち早く気づいて助けてあげられるように。


(どうしたら、そんなふうになれるのかしら……?)


 ひよこのような色をしたキンポウゲにとまっていた蜜蜂が、ふたりに驚いたのか、ぶぅんと羽音をさせて飛び立った。花は別れを惜しむかのように黄色い頭を揺らした。

 手をつないで屋敷までの路を帰りながら、リーゼロッテは自分の将来の姿をおぼろげに思い描いていた。

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