21.竜のような子
既に教本もペンの類も脇にどけたルイスは、静かにリーゼロッテの様子を観察していた。ノートに刻みこまれる幼い筆跡をチェックするその表情には、生徒の学習態度に満足している様子がうかがえた。
「リーゼはおぼえがいいですね。なにより根気強いのがいい。わからないこともすぐには投げ出さず、しっかりと考えようとしているのが伝わってきます」
「ふふっ」
リーゼロッテはうれしさと恥ずかしさの入り混じった気持ちを抑えられず、声をたてて笑った。母以外の人からそんなほめ言葉をもらったのは初めてだった。
高ぶった感情をごまかすように、顔を赤くしながらも早口に言葉をつないだ。
「おかあさまにも、リーゼはこんきづよいわねって言われたことがあるの。こんきづよいって、しゅうねんぶかいってこと?」
「どちらも簡単にはあきらめないという意味ですね」
「じゃあ、わたしはりゅうににているのかしら?」
舞いあがるような気持だった。物語に出てくる竜は、たとえ悪役にされることが多くても、リーゼロッテにとっては途方もなく強くて美しい偉大な生き物だった。
似ているなんて、なんと光栄なことだろう。
ルイスは黒い瞳をやさしく細めた。
「そうですね。似ているところもあるのかもしれません。リーゼには竜のように強い一面がありますから。もっとも、こんなにかわいらしい竜は歴史上一匹もいないと思いますけどね」
(いっぱいほめられちゃった。つよいし、りゅうににてるし、かわいいって……)
ルイスに「かわいらしい」とほめられると、なぜかはわからないけど妙に恥ずかしくなってしまう。エステルたちからなら、ただうれしいだけなのに。
にやにやしてしまう口元を見られないように、曲げた手首をそっと近づけて顎あたりをこするまねをしていた。
ジェレミアからは、かわいいなんて一度も言ってもらったことがない。褒めてもらったこともない。きっと彼からすれば称賛に値する妹ではないのだろうし、自分でもそれに異を唱えることはできなかった。
道端の石ころを見るのと同じ視線を向けられるか、そうでなければ価値を見定める商人の目で冷たく見おろされているか。リーゼロッテの記憶に残っている兄の表情はその二種類だけだ。
以前、ウェザーリー本家のパーティーに母娘揃って出席した時のことを思い出した。
母が席を外した際に、リーゼロッテはジェレミアの子どもたちにからかわれていた。一族の中で孤立した存在である後妻の子であることが大きいが、それだけではない。
国内屈指の富豪の直系として乳母日傘で育てられた彼らは、どこへ行っても丁重に扱われ、大勢の大人たちから傅かれる立場であったため、己をたいそう優れた者だと思っていた。尊大な態度を身に着け、物おじせずなんでも発言することが日常な彼らにとって、内気なリーゼロッテはひどくのろまで愚かに見えるらしかった。
その様子を見かけたジェレミアは、当主の威厳をもって子どもたちを叱りつけた。
「やめなさい。頭の出来は生まれつきのものでこの子のせいではない。かわいそうな子をからかうのは品のないことだ」
かわいそうな子……。
庇ってもらえたというのに、その兄の言葉は子どもたちの幼稚なからかいより、いっそうつらかった。
(おにいさまは、わたしのこと、なにもできないかわいそうなこだっておもってるんだもの)
その時の兄の顔を思い浮かべていると、リーゼロッテのふわふわと幸福な心に、さーっと亀裂のような影が差した。
忘れていた。ルイスはパルムとはちがう。
純粋な友達という立場ではないのだ。もちろん家族でもない。兄が雇用している使用人だ。
使用人はその働きを主から評価されて、雇用を継続するかを決定される。働きが悪いと解雇されることもある。
ルイスはよい先生だがそれはリーゼロッテの見解である。今後も長く雇うかどうかを判断するのは保護者代理の長兄ジェレミアだ。
真剣に授業を聞いておぼえようとしているのは、ルイスの話が興味深いこともあるが、彼の先生としての能力が認められないと困るためでもある。
もう大切な人と別れたくはない。
ルイスと――ルイスやパルムとすごした日々は、病床から起きあがった時期に庭に満ちていた春の光の輝きとともに、胸をあたためつづけている。
これまでにルイスと母だけだった。笑わずに困惑もせずに、庭の妖精や竜の話を聞いてくれたのは。彼らだけは馬鹿にすることなく耳を傾けてくれて、楽しそうに微笑んでくれた。
リーゼロッテにとって、心の中の美しい世界を好意的に認めてもらえた経験は、自分の存在をまるごと肯定してもらえたも同じことだった。
ルイスがいなくなったら、誰がリーゼロッテの話をそんなふうに聞いてくれるのだろう。誰が大好きな幻想をいっしょに愛してくれるのだろう。
リーゼロッテはあらためて決意した。ノートに文字を刻むように、心にもこの想いを刻みこんでゆく。
(ちゃんとおべんきょうするの。ルイスがわるいせんせいだとおもわれないように。ずっとここにいてくれるように。しゅうねんぶかくがんばるの。わたしはりゅうなのだもの)
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