37.アリーシャの手記
『〇月×日
リーゼロッテは今日も絵本を読んでいる。四歳にしてはむずかしい物語をも楽しんでいる模様だ。ソファに並んで座ると、ぴったりとくっついてきて読み聞かせをねだってくる。そのいとけない姿が愛おしい。心の豊かな子に育っているようだ。動物や竜や妖精の出てくる話を好んでいる』
『○月×日
先日、作って渡したうさぎのぬいぐるみだが、リーゼはいたく気に入ってくれたようでよく抱いて連れまわしている。泣いてぐずっているときも、ぬいぐるみを持ってきて話しかけると機嫌がよくなるほどだ』
『〇月×日
本家にてジェレミアと話し合い。気が重い。亡き夫の遺志を継ぐ形で、ジェレミアもリーゼを貴族に嫁がせる意向だと語った。当人がまだ幼いというのに、決定事項のように話してくるのに辟易している。
私はブライトウェル公爵の娘であり、己の身を家や領民のために役立てることが当然であると幼いころから考えていた。それが高貴な家に生まれた者の義務だと。
しかし、リーゼロッテに同じような道を歩ませたいかというと、幾たび考えても答えは否である。春の野花のようなやわらかな心を持つあの子には、もっとふさわしい選択があるのではないか。私は本人の意思を尊重したい』
(カティヤさん……これ、なんと読むんですか?)
隣のミアが『公爵』の部分を指で示しながら、ひそひそ声で訪ねてきた。
(公爵よ。こ・う・しゃ・く)
勉強全般が非常に苦手なミアは文字を読むことも不得意なのだ。カティヤは小声で単語を読んで伝えてやる。
『〇月×日
またジェレミアとリーゼロッテの教育に関しての意見が衝突した。そもそも彼は女には学問は不要という考えである。学問はそこそこに、社交界で必要な貴女らしい礼儀作法を身に着けさせるべきだという。
しかし私は娘に、かつての弟が学んでいたレベルの一般教養を習わせるつもりだ。私が一生守ってやれるわけではない。知識がなくては、いざというときに己を守ることもできない。
賢い子だと思うのは親の欲目か。否。向学心のある子だ。学びも遊びの経験も彼女の感性を育ててくれるだろう。最近はわずかではあるが女性向けの学校もできている。興味があるようなら、いずれ専門的な学問をも身につけさせたい』
アリーシャのジェレミアに対する怒りと反発は、リーゼロッテの成長とともに激しくなっていくようだった。
日記の多くは冷静に綴られていたが、時には、激しい憤りを見せることもあった。
『〇月×日
ジェレミアが送ってきた新しい乳母を解雇した。リーゼロッテを口喧しく縛り付けようとするため、繊細な彼女が委縮してしまっていたからだ。
ジェレミアの考える「淑女」とは、常に穏やかで微笑みを絶やさない優雅なお人形のことだろうか。感受性の強いリーゼの心を殺して、そこに従順な操り人形のような性根を植えこむつもりか。
彼は悪人ではないが、それだけに扱いに困惑してしまう』
(カティヤさん、カティヤさん。お嬢様がお人形ってどういうことですか?)
ミアが質問を投げかけてきた。今度は文章の意味が分からないらしい。
(たとえよ。自分の意志で話すこともできないつまんねぇやつってことよ)
ざっくり説明すると、ミアは眉間にしわを寄せて資料を眺めながら、つまんねぇやつ……と真剣な声でつぶやいた。
『〇月×日
〇〇夫人とお茶。「子どもにはやさしく育って欲しいか、それとも賢く育って欲しいか」と話し合った。私には選べない。想像し思いやる心も、知識や考える力も、どちらも必要だと考える』
『〇月×日
△〇家の長女は七歳であるのに婚約が決まった。礼儀作法や芸術の学習に力を入れているらしい。
リーゼにはまだ社交界デビューや婚姻を念頭に置いての活動などはさせたくない。子どもの時期はあっという間に過ぎてしまうだろう。いまのように花や生き物と遊び、川の水に足をひたすような日々を楽しませたい。
彼女を誰よりも見ている立場からして、そういった体験がこれからのあの子の心を支えてくれると信じている』
忘備録からはアリーシャの娘への強い思いがうかがえて、読み進めていくうちにカティヤもしんみりとしてしまった。
奥方は娘を深く愛していたし、こんなに早く別れるつもりもなかっただろう。伝えたいことも数えきれないほどあっただろうに。
エステルは既に資料を読んでいるはずだが、再度、目を通すうちに感情がこみあげてきたのか、たびたびハンカチで目を押さえている。
読み書きの苦手なミアは、まだ半分くらいしか理解できていないのではと思われるが、議論に参加しようとする気持ちは大きいらしく、いつになくむずかしい表情をしていた。
「原本は奥様の部屋にあります。もし情報の正確性を確認したいのであれば、お嬢様の許可を取ってそちらをご覧ください」
ルイスが口を開いた。
「他の人へは内密にお願いします。この紙もあとで集めて処分します。できるだけおぼえていてください」
エステルが同意した。ミアもうなずいたが、「おぼえる」のはたいへんな重荷のようで、眉間にしわを寄せて懸命に読みこんでいる。
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