15.たいせつなもの

 ――パルムは、生きた魔法のぬいぐるみ猫ではなかった。

 あのルイスという青年が動かす魔法玩具だったのだ。


 リーゼロッテはベットの上でごろんと寝返りを打った。ひとりきりの寝室は薄暗い。下階で人々が働く気配も、ここまでは届かなかった。

 休んでいると、鉄のオーブンから出された熱々のパイが皿の上で熱を失っていくように、混乱していた頭がゆるやかに冷えてゆく。

 枕の隣にいたピンクのうさぎのぬいぐるみを引き寄せて、ぎゅっと抱きしめる。心を落ち着かせたいときのくせだった。


 さまざまな情報といくつもの感情とが入り乱れていた。

 単純な落胆もあった。

 あんなに愛くるしい生きたぬいぐるみなんて、本当はいないんだ……。ちいさな手足を動かして、ちょこちょこ歩くもふもふパルムの姿は、近いうちに消えてしまうんだ。

 やっぱり、そうだった。魔法なんて、リーゼロッテのようなちいさな女の子が、簡単に触れられるものではなかった。現代の魔法とは、大人たちがお金で動かすものなのだ。


 パルムはかわいらしい。空色の猫というのが、なんとも素敵だ。

 もっと幼い頃から、リーゼロッテは子猫が欲しくてたまらなかった。ちいさくて人なつこい子猫が身近に一匹いて、ちょこちょこ後をついてきたり、ソファでくつろぐ膝の上でまるくなって眠ったりしたら、毎日がどんなに素敵になるだろうと想像していた。


 そんな憧れもあって、ちいさなパルムの愛らしい姿と仕草は、リーゼロッテの心を虜にした。

 できればあの姿のまま、ずっと側にいて欲しい。


(でも……)


 手元のうさぎのぬいぐるみは、リーゼロッテによってウームという名を授けられている。そのまるい木製のボタンの瞳を眺めながらも、パルムのことを考えてしまう。


(この子だってかわいいのに。どうしてパルムだけ、あんなにきらきらしているの?)


 他とはちがう、際立って魅力的なことを言い表す言葉が見つからなくて、リーゼロッテはそれを「きらきら」と呼んだ。 

 パルムは特別だった。とびきり愛くるしいぬいぐるみをいくつ並べても、パルムの代わりにはなりそうにない。


(だって、パルムとおはなしするのは、とてもたのしかったもの)


 リーゼロッテの思いついた物語を、いつだって楽しそうに聞いてくれたのはパルムだった。庭に妖精や竜がいるという話はでっちあげではない。リーゼロッテは本気で信じている。

 もっとも最初は「こんなことがあったらいいのに……」と思いながら想像の世界で遊んでいたのだが、何度も思い浮かべるうちに徐々にその光景が鮮烈に見えるようになってきて、いまではその幻想が本当のことと混ざり合って区別がつかなくなっていた。

 パルムは一度も否定することなく、常に興味深そうに耳を傾けてくれた。他の屋敷の人々に話しても、あきれたような顔をするか困ったような顔をするかで、一緒に楽しんでくれることはなかったのに。


 リーゼロッテが大切にしている世界を、理解してくれたのは母とパルムだけだ。

 庭に広がる幻想は、いまも彼女の心そのものだった。それを、パルムはまるごと受けとめてくれたのだ。


 自分にも毎日にも絶望していたのに、ある日ひょっこり現れた彼が、リーゼロッテの世界を変えてしまった。彼は子どもの手をとって、やさしい夢よりももっと楽しい、色とりどりの心躍る日々があるのだと行動で告げた。

 ふわふわの手の先にも、かける言葉のひとつひとつにも、愛がこもっていた。


 すべてが偽物ではなかった。


(そう。そうだわ。うそじゃない)


 その姿が偽りでも、パルムは、パルムを動かしていた誰かは、心からリーゼロッテのことを好きでいてくれた。それだけは本当のことだったから。

 こっそり覗いたドアの向こう。姿はちがっていても、彼の言葉の端々から、リーゼロッテのことを想う気持ちが切実に伝わってきたから。

 

『リーゼ。愛しています。どうか目を開けて』


 初めて出会った時の、あのパルムの真剣な呼びかけをおぼえている。あの言葉はうそではなかったのだ。


 永遠に広がる黒い闇夜に、ほのかな灯りがともったかのようだった。母がいなくなってから、もう誰にも心から必要とされないのだと思っていたのに。


 わたし、あいされているの……?

 

 すこしは、あいされるおんなの子だとおもっていいの? 


『僕にかかっている魔法が消えてしまって、このふわふわの愛らしい姿でなくなったら、リーゼはどう思うでしょうか?』


 ずくりと胸が痛んだ。


 かわいそうなことをしてしまった。あの時、真摯に訴えるパルムの声に、不安が宿っていたのに気づいていたのに。


『あなたのことが大好きです。この姿が変わっても、友達でいて欲しいと願っています』


 彼の言葉を思い出すと、胸がきゅうっとしめつけられる。どうしてなにも言えなかったのか。そんな時のなにもできない自分は、やっぱり好きじゃない。


(ああ、パルム。ちがうの。ちがうのよ)


 テーブルの上で両手を広げるちいさな姿を思い出すと、無言のままでいた自分が、ひどく残酷なことをしたような気がした。

 彼はどんな気持ちでそれを口にしていたのだろう? 拒絶されたらと怖かった? それとも、祈るような気持だった?


 パルムのことが大好きだから、なにも変わって欲しくなかった。だからとっさにこたえられなかった。ふわふわの愛くるしい猫の姿も大好きだったから。


 でも、もしも仮に魔法がとけて別のかわいくない姿に変わったとして、パルムのことがきらいになるだろうか……?


 リーゼロッテを愛してくれる、彼を……?


「リーゼ、大好きです」と言ってくれる彼を。


 親族に「醜い」と言われるたびについた心の傷が、えぐられるようにまた痛んだ。パルムだって、大好きなリーゼロッテから、見た目のことなんて関係なく愛されたかったんじゃないだろうか。


 もしかして、わたしがパルムをおなじようにきずつけたの……?


 もしパルムが傷ついているのなら、すぐに駆け付けてなぐさめてあげたい。

 でも、なんて言ったらいいのだろう?

 リーゼロッテのちいさな胸は、いろいろな情報やいくつもの思いが入りこむとたやすく混乱してしまう。相手にわかりやすく伝えることは苦手だった。


 それでも考えつづけているうちに、ようやく、ひとつのことが見えてきた。


(パルムはウームとはちがうわ。こころがあるから……)


 パルムが他のぬいぐるみとはちがう理由。それは彼にはリーゼロッテと同じように、なにかを好きになったり、きらいになったり、時には不安になったりする心があることだ。


 わたしがだいすきなのは、かれのこころだわ。


 わたしのことをすきでいてくれるのも、かれのこころだわ。


 エステルと話す青年の言葉の中にまぎれもなくパルムを感じた。見た目は全然ちがうのに。

 なぜなら言葉の端々に、リーゼロッテへの想いが感じられたから。パルムの賢さもユーモラスなところも、みんなあの青年の言葉のうちにいた。


 彼はうそをついていた。たぶんエステルや、カティヤ、ミア、屋敷の皆もグルになってリーゼロッテを騙していたのだ。『魔法の猫がお友達になりたいとやってきたよ』と。

 しかし、それが自分への悪意からくるうそではないことはわかっていた。


『楽しい魔法があるよ。かわいい生き物がいるよ。おいで、リーゼロッテ』


 そうやって、まるで皆で人形劇を演じるようにして、現実世界を拒絶していた子どもが生の世界に戻ってくるまで、夢の世界を見せてくれていたのだ。


「あなたのことが大好きです」


 あの言葉はうそじゃなかった。彼の心は最初からあの青年の中にいたのだ。


 それなら、パルムは消えない。

 なにも変わらない。これまでと同じように、一緒に庭で遊んだり、本を読んだり、他愛ないおしゃべりで笑い合ったりできるのだ。

 安心していいんだ。


(パルム、だいすき)


 リーゼロッテはぬいぐるみを抱きしめて顔をうずめた。母のお手製のうさぎのぬいぐるみは、古びた布とほこりのようなにおいがした。


(どこにも行かないで)


 物知りで、おだやかで、やさしいパルム。

 彼とお喋りすることができない毎日は、どんなにつまらないことだろう。


(ずっとおともだちでいて。もっとおはなししたいの)


 これまでと同じような日々を送りたい。それだけでなくリーゼロッテの心には、新たな願いも生まれていた。


(もっとパルムのことをしりたい)


 どうして、パルムは自分のことを、初対面の時から大好きでいてくれたのだろう? 

 よくよく考えてみたら、突然この屋敷に現れた彼に関して不思議なことはいろいろあった。住んでいる所さえ教えてもらっていない。

 

 パルムのことをたくさん知りたい。どんなお花や食べ物が好きだとか、きらいだとか。どこに住んでいるのか、どこで生まれたのか。


(はやく、いわなきゃ……)


 パルム、かわいくなくてもいいの。ここにいて、って。


 それから、たくさんおはなしするの……。


 想いを言葉にするのは得意じゃない。でも、いまならできるような気がした。


 リーゼロッテはベッドに横になったまま、彼に伝える言葉を考えていた。

 あれもこれも、伝えたい。どうしよう。なにから話そう。

 ごめんね? ありがとう?


 カーテン越しの強い日射しが、午後の寝室をとろとろと温めていく。

 ベッドに横たわるうちに、体もまぶたもあらがいがたく重くなってきた。今度こそ本当に疲れが出たのだろうか。シルクの枕に顔をうずめる心地よさに瞳をとじると、あっという間に深い眠りに落ちていた。

 お茶の時間が過ぎて、西の空にうっすら朱が差す頃になっても、パルムが起こしてくれることはなかった。

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