14.ぬいぐるみの正体 二

 まず最初に、リーゼロッテは母の部屋を覗いてみた。前のように、パルムがひとりで母の肖像画を見ながら座っているかもしれないと思ったからだ。だが彼の姿はなかった。

 その次に書斎を覗いたがここにもいない。父の残したいかめしげな書物たちが、カーテンの閉められた薄暗い部屋に行儀よく並んでいるだけだった。

 二階には他に思い当たる場所もない。そして現在、三階は掃除の手が行き届かないためほぼ封鎖されている。

 

 それなら下の階にいるのだろう。誰かに見つからないように気をつけながら、そろそろと歩んで一階に向かった。

 ひとけのない居間をのぞいたあと、主人用の食堂を見てみた。つぎに応接間や客間も捜してみるがどこにもいない。

 窓の外には青空が広がっている。こんな気持ちのよい昼下がりには、お昼寝よりパルムと遊ぶほうが楽しいに決まっているのに、どうしてベッドでじっとしていないといけないのだろう。リーゼロッテにとってはふしぎだった。きっと大人たちは楽しいものの価値がわかっていないのだと思った。

 方々で窓が換気のために開けられていた。若葉の香をのせた青い風が廊下を吹き抜けて行く。


 掃除中のメイドが通路の奥から出て来て、リーゼロッテに気づいて声をかけようとした。

 あわてて「しっ」と人差し指を口に当てて合図した。


「ちょっとおなかがすいちゃったの。すぐにもどるわ。エステルにはないしょにして?」


 昼食を食べたばかりなのにお腹が空いているなんて、無理があっただろうか。

 しかし彼女は「わかりました」とだけ応えて見逃してくれた。エステルにお説教をされたら気の毒だと思ってくれたのかもしれない。


 一階の心当たりのある場所はだいたい捜した。次はどうしようかと人差し指をあごにあてて考えてみた。

 一階と二階は主にリーゼロッテと母のための空間であり、屋根裏部屋と半地下が使用人の居場所になっている。

 パルムを使用人というのも変だが、家族というわけでもない。客間に誰かが滞在している気配もなかった。もしかしたら、半地下のほうにいるのかもしれない。 

 でも気をつけないと。午後のこの時間帯は半地下で働いている人が多いはず。リーゼロッテは呼吸の音さえひそめるようにして、注意深く階段を降りて行った。


 まずは料理人やキッチンメイドが作業をしている厨房をそっとのぞいた。

 厨房付近は熱と臭いがこもりやすい。ドアは開けっぱなしだった。前足をあげた鉄の犬が、けなげにドアを支えている。

 午後のお茶の準備をしているのだろう。菓子を焼く香ばしい匂いがただよっている。パルムの姿はない。


 それから使用人ホールに向かった。この屋敷で働く人々のための休憩室であり、食堂も兼ねていた。

 使用人ホールに設置された長テーブルには、中年のメイドがひとりいて、疲れた様子でもくもくと遅い昼食をとっているだけだった。

 さらに奥のほうには四枚折りの木製の衝立がある。その向こうは小休憩をとることのできる空間となっており、ベッドのように使える大きな長椅子もあったはずだ。

 だがメイドに気づかれずに、そこまで見わたすことはむずかしそうだった。

 すくなくとも話し声は聞こえないようだ。リーゼロッテはその場を離れた。


 食器室の前に来た。普段は鍵がかけられていて、さほど使われている印象のない部屋なので、簡単に見て通り過ぎるつもりだった。

 ここに納められている食器類には高価なものがすくなくないため、主の信頼の厚い古参の使用人しか入れない。いまは管理はエステルが行っているはずだ。

 ときおり彼女はこの静かな部屋で、一人で帳簿付けなどを行っているようだった。

 

 ドアに耳を近づけると、部屋の中からは、誰かの話し声らしきものが聞こえてくる。


「……でしたわ」


 !! 


 リーゼロッテは身を固くした。聞き覚えのある女性の声がしたような……。


「ですから、気になっていたのですわ。そうしたら……」


 やっぱり。この声はエステルだ。

 昼寝の時間に歩き回っていることが知られたら叱られてしまう。


 しばらく身を硬くしてじっとしていたが、部屋の中から誰かが出てくる気配はなかった。気づかれてはいないようだ。

 ホッとしながら、そっとドアノブに手をかけた。音がしないように慎重に扉を細く開けて、おずおずと中をのぞいた。


 見知らぬ黒髪の若い男性が、テーブルについている姿が見えた。

 その人を見た瞬間、なにか直観めいたものが天啓のように降ってきた。もうこれまでと同じように暮らしてはいられないのだという想いがした。とくとくと胸が早鐘を打ちはじめる。


 歳の頃はエステルと同じくらいに見える。二十歳前後といったところだろうか。

 白いシャツに黒いスーツというよくあるお仕着せのような姿だ。高価なものではないだろうが、身の丈に合ったサイズ感で目立った汚れもない。

 髪も瞳も黒かった。黒髪はこざっぱりと整えられている。


 身なりはその人物がどの階級に所属するかを判断するための材料になる。警戒心と好奇心から、リーゼロッテは注意深く青年の風姿を観察していた。

 口もとには温厚そうな笑みをたたえている。ときどき相槌を打ちながらも手にした帳面を熱心に見つめる黒い瞳はすこぶる怜悧に見えた。

 綺麗な顔立ちだと思った。


(きれいなひとだわ。おかあさまのつぎくらいに)


 貴族や富裕層の紳士ではなさそうだ。だがその整った容姿には知性と清潔感がただよっている。おそらくはどこか名のある屋敷に仕え、そこそこよい待遇をもらっている使用人といったところではないか。


 その近くにエステルの姿が見える。大きな皿にのったパイを切り分けているようだ。

 黒髪の男性は、帳面と鉛筆を脇によけると、紅茶を注ぎはじめた。

 その間も、エステルと青年は親しげに談笑をしている。

 

 うちの使用人にこんな人がいただろうか……。まったく見覚えがないけれど。


(だれ、なの……?)


 その男性がテーブルにのせたものを見て、リーゼロッテはあやうく声をあげそうになった。


 ――パルム!


 叫びを必死にのみこんだ。

 それは身動きひとつしないパルムだった。くったりして生気がない。あれが本当にあの生き生きとしゃべるパルムだろうか? まるっきりただのぬいぐるみのようにしか見えない。


(どうしたの? だいじょうぶ? パルム!?)


 青年はくたりとしたパルムをテーブルクロスの上に座らせると、なんとはなしといった風に指先でもてあそびながら口を開いた。


「では、お嬢さまはよくおやすみだったのですね」


 涼やかなその低い声に、また胸が高鳴った。


(このこえ、しってる……)


「ぐっすり眠っておいででしたわ」


 エステルが満足げにこたえた。


「もっとパルムと遊びたそうにしてらしたから、寝ないとぐずられるのではないかと思っていましたけれど。遊び疲れたのかしらね。そういえば昼食も完食してらっしゃいましたわ」


 エステルの話し方からは、彼女とこの男性がほぼ対等の関係であることが読みとれた。彼女がおだやかな表情で話しているので、すこしだけリーゼロッテの警戒心もほどけていく。

 エステルが信頼している人なら、すくなくともそんなに悪い人ではないのだろう。たぶん。

 パルムを手にする謎の人物への関心から、リーゼロッテはすっかりふたりの会話に聞き入っていた。

 

(だれなの? ここで、なにをしているのかしら?)


「遊びすぎてすこしお疲れだったのかもしれませんね。それにしても……。リーゼロッテお嬢さまが、思いのほかパルムに心を開いてくださったのはさいわいでした」


 青年が語った。最後のほうはひとりごとのように。

 知らない人の口から自分の名前が出たので、リーゼロッテは緊張しながら耳に意識を集中させる。

 なにを言われるのだろう? すこし怖い。


 エステルが、切り分けたミートパイをちいさな皿に移し、それぞれに木苺とカッテージチーズを添えているようだ。焼けたバターの香ばしい匂いがただよっている。


「ええ、ルイスさんがいらしてから、お嬢さまもすっかりお元気になられましたわ。おそれ多いことでしたけど、ブライトウェル家におすがりして本当によかったわ。屋敷の者たちもみな喜んでおりますよ」


 エステルの言葉に、ルイスと呼ばれた青年は軽くうなずいた。


「お元気になってこられましたね。公爵さまからも安堵されたとの連絡がありました。ああ、ありがとうございます」


 差し出された皿を受け取りながら、青年は礼を言った。

 エステルが気づかわしげに問いかける。 


「今日もお昼がおそくなりましたね。さぞおなかがすかれていたでしょう?」


「いえ、今朝は下宿先で朝食を多めにいただいたので……」


 ふたりは向かい合って食事をとりながら、しばらく他愛のない雑談をしていた。

 しかし軽い話題だったのは最初の頃だけで、だんだんと彼らの口ぶりが、業務中の大人の間で交わされるような重々しいものへと変わっていく。その議論の中心となっているのはどうやらリーゼロッテのことのようだ。


「次の段階へ進まねばなりませんね」


 青年はそう言うと、おとなしく座っているぬいぐるみの頭をなでた。


「これ以上、魔法玩具を借りるのは資金的に厳しいです。ブライトウェル家のみなさまをはじめご支援くださる方々のおかげで、どうにかここまで延長してこられましたが……」


 母の実家の公爵家の名前がたびたび登場するのが気になって、リーゼロッテはひとことも聞き漏らすまいと耳をすませる。

 青年は、思い悩んだような口ぶりで語り始めた。


「パルムがいなくなることをお嬢さまにどう説明しようかと、最近はそればかりを悩んでいます。できるだけお心を痛めてしまうことがないようにと考えると、むずかしいですね」


 一瞬、頭が真っ白になった。


 いなくなる……どういうことなの……?


 ふたりの会話を同じ速さで理解することは、リーゼロッテにとってむずかしかった。半分ほどしかわからない。

 すんなりと飲みこめない会話をそれでも一心に聞きながら、青年の手で頭をぽふぽふされるパルムを見つめていた。


「パルムのあとを僕がうまく引き継げれば、それが一番でしょう。ただお嬢さまは知らない大人の男に対しては、とりわけ強く警戒心を抱かれる方だと聞きました」


 そう言うと青年は、パルムをいじくるのをやめて、ミートパイをひと口大に切り分け始めた。


「見た目は変っても同一人物だとご理解いただくには、どのように申せばよいのか……」


『この姿が変わっても、友達でいて欲しいと願っています』

 

 あの時、庭の木陰のテーブルの上でそう訴えたパルムの切実な姿が、にわかに思い出された。


「そうですわねぇ。もともと人見知りでいらっしゃる上に、大人の男性と親しく接する機会がすくなくていらしたものですからね。ジェレミアさまが、若い男性がお嬢さまに接触することを警戒なさっているの。嘆かわしいことに、遺産目当ての求婚者がいまから絶えないのですって……。だから」


 さもあきれ果てたように、エステルがつつましやかな頭を横に振るのが見えた。


「こんなふうに大人の都合に振り回されるのもおかわいそうですわ。もうしばらくはお嬢さまをパルムと遊ばせてさしあげたかったわ。あんなに気に入っていらっしゃるのに」


 エステルの顔は見えないが、その声音からは不満と気づかいが伝わってきた。

 リーゼロッテの前では、いつも礼儀正しく背筋を伸ばして、文法的にも道徳的にも正しい言葉を使っている彼女が、主のいないところでは食事をしながら愚痴を口にしている。それは興味深い発見だった。


 エステルの嘆きを聞いて、青年はしばらくだまって考えこんでいるようだった。


「楽しい日々でしたね。……本当に」


 その日々の記憶を脳裏でたどっていたのか、感慨深そうな声でこたえながら青年は黒い瞳を伏せた。


「お心が癒えるまで、魔法のパルムをつづけられたならよかったのですが。魔道具は高いとは聞いていましたが、本当に高価なものですね。子どもの頃から地道に貯めた貯金だったのですが、なくなる時はあっけないものです」


 青年はそう言うとやわらかな笑顔を見せた。冗談めかすようなその口調には、たしかにおぼえがあった。


(パルム……なの?)


 彼の言葉を聞くたびに、確信のない想いが少しづつ形を作って、よりたしかなものになってくる。

 声だけじゃない。彼の纏うやわらかな雰囲気は、まるであの愛しいぬいぐるみにそっくりだ。


 エステルがティーカップを受け皿に戻すと、嘆かわしそうに深く息をついた。


「お呼びした者として心苦しく思っておりますの。ルイスさんにはなんとお礼を申してよいやら……。お嬢さまのための費用なのだから、ジェレミアさまがお支払いしてくださってもよいのにねぇ。旦那さまが残してくださった遺産は、お嬢さまのために使われるお約束ですのよ」


「僕の独断でしたからね。お嬢さまの体力からして、一刻の猶予もないと思われましたので」


「お仕事までお辞めになられて……。ブライトウェル公爵家ならお給料だって安定していらしたでしょうに。こちらなんて、もう、ね。お聞きになられました? ねぇ、惨憺たるものでしょう?」


「いえ、それほどでも……」


「奥さまは使用人の生活のことを考えてくださっていたのに、お亡くなりになってからはひどいものですわ。ジェレミアさまったら、二言目には節約、節制って……」


「……大変ですね」


「『リーゼロッテに贅沢をおぼえさせないように』。私たちにはそうおっしゃるくせに、あちらの奥さまったらお金を湯水のように使っているのよ。大勢の子どもたちを王さまのお世継ぎみたいに着飾らせてね」


エステルの愚痴は止まらない。ジェレミアによい感情を持っていないらしい。語気の荒いメイドを前に、青年は困ったように言葉を選びながらおちつかせているようだ。

 メイドたちの中でも、特にしっかり者の姉のようなエステルが、まるで妹のようになだめられている様子はめずらしい。まじまじと眺めてしまう。


「お嬢様の命を救えるなら貯金なんてどうでもよかったのです。後悔はないですが、もう魔法に頼れないのは心もとないですね。さいわい正式に教育係としての契約を結んでいただけたことですし、やれるだけのことはやってみます」


 そう言うと、青年はお茶をひと口飲んだ。


「ふわふわでもなく愛くるしくもないですが」


 その笑顔を見ると、リーゼロッテの胸は痛みを感じたようにキュッとしめつけられた。


 ああ、この言い方……。リーゼロッテの前で道化を演じて笑わせようとするときの彼のものだ……。


(パルム……)


 リーゼロッテは知らずのうちに手のひらを胸にあてていた。鳴りやまない鼓動をしずめようとするかのように。


 エステルは機嫌をなおしたようで、青年の言葉にくすくす笑った。


「きっとルイスさんともうまくいきますわ。いまのお嬢様は、なんといいますか……以前とはちがうように感じますわ。それにパルムの心はあなたですもの」


「最善をつくします。僕たちの大切なリーゼロッテお嬢様のために。それに、アリーシャ様のご恩に報いるためにも……」


 大人たちの和やかな会話を聞きながら、リーゼロッテはこれまで頭に入ってきた情報を懸命に整理していた。

 衝撃が大きかったためだろうか。なんだかふたりの声も扉の隙間から見える光景も、まるで夢の中にいるかのようにふわふわして遠い。


 パルムはあやつられてたの?

 パルムはいなくなるの?

 パルムはどうぐなの?

 

 ……


 ……つまり


 パルムは……あの人なんだ。


 魔法のパルムの正体、それはルイスと呼ばれていたあの青年だったのだ。 


 ぼう然としたままその場を離れ、幽霊のように歩いて気がつけば寝室に戻っていた。リーゼロッテはぱふんと音をさせて力なくベッドに倒れこんだ。

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