2.家庭教師とお嬢様 二

 遠くの土地同士を結ぶ魔法の通路が開発されて、国やごく一部の富裕層に利用されるようになってから、世界は急速に変化しつつあった。

 遠方への大量の物資の運搬が容易になったことは、多くの人々の暮らしに豊かな恵みをもたらしていた。


 東南の国々との貿易で、莫大な富を築いた商人である父は、若く美しい後妻と、その間に生まれた娘であるリーゼロッテを、ひどく溺愛していた。

 母は裕福ではないが由緒ある古い血筋の貴族の出自だった。中流階級から成り上がり、上流階級の仲間入りをすることが願いだった父にとって、この母娘の血は、己の劣等感をぬぐいさってくれる尊いものだったらしい。


 末娘のかわいさに分別も失った父は、美しい別邸を町郊外に建設し、母娘に与え住まわせた。先妻の子どもたちとの折り合いが良くないことに、心を痛めての措置だった。

 さらに自らも別邸に入り浸り、同じ町にある本邸とそこに住む子や孫たちのことは、さして関心がないかのようにふるまった。


 あまつさえ、もし自分になにかがあったときには、遺産の大半をリーゼロッテに譲り渡すと宣言した。高齢の父を持つ幼い女の子の行く末が不安だからというのが表向きの理由だったが、それだけではないことは明らかだった。

 彼はリーゼロッテに資金をつぎ込み、一流の淑女に育てあげ、多額の持参金を持たせ、名門の貴族に縁付かせることを望んでいたのだ。


 当然のことながら、先妻の子たちをはじめとする親族の猛反発をくらった。リーゼロッテの母さえも、それでは他の家族をないがしろにしすぎていると、必死に反対した。

 一族の中で絶対的な権力を持っていた父は、誰の意見にも耳を貸さなかった。逆らえるものはいなかった。


 父の愛情を横取りされた子どもたちの恨み、財産を不当に奪われたのだという憤り。父が亡くなると、その憎悪は容赦なく母娘に向けられた。母が亡くなると、娘に一身に。

 母親という大きな盾をなくしたリーゼロッテに、憎しみの矢は慈悲なく降りそそいだ。愛する母を失った子どもは、同時に、自分がたくさんの人たちから憎まれていることを知ったのだった。


 遺言で、遺産はリーゼロッテの生活と教育のために使われ、残金は成人し結婚するときに渡されることとなっている。それまでは、現在の一族の長である長兄・ジェレミアが管理することに決められていた。

 ジェレミアは厳格で公明正大な人物であったため、リーゼロッテの生活は、はたから見て、良家の子女として不自由のないものであった。

 ただ、彼とて家族としての愛情を向けてくれるわけではなく、家長の義務として必要最低限、気にかけるのみだった。かわりに使用人たちが、家族のように幼い主に愛情を注ぎ、日常の世話をしていた。


 リーゼロッテは、かわいがってくれる屋敷の使用人たちや、通いの家庭教師であるルイスのことが大好きだった。

 それでも、彼らはお金で雇われていて、仕事でリーゼロッテの世話をしているのだということは、子どもながらにわかっていた。

 いつかもし、主人と雇われ人という関係がなくなれば、お別れしなくてはならないことも。


(おとなになったら、かぞくをつくるの)


 リーゼロッテはその日が待ち遠しかった。

 教本を見ているルイスの端正な顔立ちに、チラチラと目をやる。


(ルイスとけっこんするの。おべんきょうして、かしこくなって、すてきだって、言ってもらうの)


 リーゼロッテは、ルイス先生のことを世界で最も賢くてかっこいい人だと信じていたし、せめてそれにつりあうくらい賢くなりたいと思っていた。

 ルイスの夜空のような黒い髪と瞳は、なんて魅力的なんだろう。黒い瞳って、くっきりと鮮やかで印象的なのに、どこか神秘的でつかみどころがないようで、見ていて飽きない。


 そんなふうに熱をこめて見られていることなど気づいていない様子の青年は、リーゼロッテのノートを見ながら言った。


「よくがんばっていますね。つづりの間違いもだいぶん少なくなってきましたね」


「うん」


 ほめられたのがうれしくて、にっこり笑う。


「がんばってるわ。わたし、びじんじゃないから、かしこくなりたいの」


 無邪気なリーゼロッテの言葉に、ルイスの眉根がかすかに寄った。


「美人じゃないって、誰かからそう言われたのですか?」


 しまった、と思ったがもう遅い。


 ――まあ気味の悪い。なんて醜い子なのかしら。


 忌々しげな姉たちの声が耳の奥に響いた。心の底に封じこめていた記憶がよぎる。


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