6.魔法のぬいぐるみ猫パルム
ゆっくり、ゆっくり、ゆらゆら、沈みつづけている。心地よい。
ひとりきりの部屋でベッドに横たわり、ふわんとした大きな白い枕に頬をうずめて、昼も夜も関係なしに夢の世界に静かにたゆとう。
リーゼロッテはしあわせな安らぎに包まれていた。つらいことなどなにもなかった。いつだって守ってくれる母と、ずっと一緒にいられるのだから。
しっかりと閉じたまぶたの中で、リーゼロッテは母・アリーシャと手をつないで、やわらかな光のあふれる花園の小道をゆっくりと歩いていた。
澄みわたった濃い青空の下、青紫色のすみれの花が、地平の果てまで咲き乱れている。それは涙が出そうなほど、やさしい幻想的な光景だった。
こちらが本当なのだ。そう確信する。
お母様がいなくなったと思ったけど、それは勘違いだったのだ。
母はその彫りの深い端麗な面差しを、我が子に向けると話しかけた。
「そろそろおやつにしましょうか、リーゼ。今日のおやつは木苺のパイですって。楽しみね。ミルクと紅茶、どちらがいいかしら」
「おかあさまといっしょがいい」
甘えた声を出しながら、リーゼロッテは母親の腕にもたれかかり、花々に見送られながら屋敷への道のりを歩いた。
テーブルをはさんで向かい合わせに座ると、運ばれてきたパイに手を付けることもなく、若々しく美しい母の顔に微笑みが浮かぶのを見つめていた。
細められたサファイアの瞳を見ていると、しあわせな気持ちが満ちてきて、つられてこちらまで笑顔になってしまう。
とってもすてき。
おかあさまのわらったおかお、だいすき。
ふと気がつくと、いつの間にか窓の外は暗くなっていて、リーゼロッテは自室のベッドに横たわっていた。
薄手のナイトドレスをまとった母が身をかがめて、リーゼロッテの前髪をかきあげると額にキスをした。
「おやすみなさい。リーゼ。よい夢を」
「おかあさまもいて? ここでいっしょにねるの」
しかたのない子ね……とアリーシャは言ったが、とがめる風ではなく、甘える我が子をかわいいと思っているようだった。その声はいとおしさに満ちていた。
隣に横になった母に、やわらかな腕で抱きしめられたので、その胸にしがみつくようにして顔をうずめる。心地よい温かさと甘い匂いにうっとりした。
幼い娘を宝物のように抱きしめたまま、母はやさしく語りかけた。
「ずっと側にいるわ。なにも心配しなくていいのよ。かわいいリーゼ」
うん。ずっといてね。
――リーゼ。
そのとき、甘い母の声とは別に、なにかが聞こえた気がした。
――リーゼ。リーゼロッテ。
最初は気のせいだと思った。
だが、母とのふたりきりの甘美な時間を邪魔するかのように、低いその音は何度も繰り返された。
――リーゼ。リーゼ。
そして、だんだんとそれがただの物音ではなく、人の声であるように感じられてきたのだった。
――リーゼ。
どうやら、誰かがリーゼロッテの名前を呼びつづけているようだ。
どこか遠く、まるで世界の外から響いてくるような、はるかな声だった。空の上か、地の底から呼ばれているかのように、遠い。
……リー……ゼ……?
その声を気に留めた途端、ふっ……と、母の姿も、ベッドも、なにもかもがかき消えた。
リーゼロッテは暗闇の中にひとりで孤独に立ちすくんでいた。
これは、ゆめ……。ねてたの……?
(ちがうわ!)
忌まわしい言葉たちが頭に浮かびかけたのを、すぐさま否定して打ち消した。
夢じゃない。いま母とともに過ごしているここが本物の世界なのだから。
そう自分に言い聞かせると、遠くより響く声から逃げるように心を閉ざした。
名前を呼ばないで欲しい。そちらには行きたくない。母がいない世界なんて、うそ。嫌なことばかりの、寂しいにせものの世界なのだから。
じわじわと心に悲しみが染みてきた。不快な呼びかけを心の中から振り払うと、いつものように母とのやすらぎにみちた生活に戻ろうとした。
暗闇の世界にぽわっと明かりが灯り、ベッドや母の姿がおぼろげに戻ってくる。
しかし、再び安らぎに身をゆだねようとしたリーゼロッテを、声の主は放っておいてはくれなかった。
――リーゼ。かわいいリーゼ。
その低い声はひたむきに響いた。あきらめる気配はなく、何度も何度も。
ぽとり、ぽとりと、降り始めのささやかな雨の粒をふと顔に感じて、空を見上げているときのような心持ちがした。
そのあるかなきかの刺激は、次第にはっきりと感じられるようになってきて、いよいよ無視できないものとなっていく。
――リーゼ。聞いてください。あなたが大好きです。
(……だれ?)
しつこさに負けて、とうとうリーゼロッテはその声の存在を認めた。
よくよく聞いてみると、それは覚えのない大人の男性の声のようだった。
――ここにはあなたを愛している人たちがいます。僕だってそうです。
声が実在するのだと認めた直後から、だんだんと、その言葉がはっきりと聞き取れるようになってきた。
遠い空の上などではなく、どこか近くから話しかけられているようにも感じられる。
――届いていますか? リーゼ。
その声は、おだやかで心地よかった。それなのに、必死な気迫に満ちていて、つい耳を傾けずにはいられなかった。
――リーゼ。愛しています。どうか目を開けて。
(……め、を……)
ぽふっ。
なにやら、頬にふわふわしたものが当たっている。
ぽふり、ぽふり。
さわさわ、ぽふぽふと、空気を含んだやわらかいものになでられているような感触がする。ふんわり気持ちよくて、少しだけくすぐったい。
リーゼロッテは、ゆっくりと、はりつくように重いまぶたをこじ開けた。
体に重さが戻ってくる。全身が重くてだるい。肩や背中に石の魔物でも張りついているのかと思うほどだ。
息が苦しい。自分の弱々しい呼吸の音がやけに耳につく。
いままで目の前に満ちていた、天からこぼれたかのような清らかな淡い光が、すっと溶けて消えた。
水の中に沈んでいるような静けさの中で聞こえていた、甘美な母のささやき声。愛情をこめて抱いてくれていた、しなやかな腕の感触。陶然とする甘いほのかな匂い。それらの心地よいものたちが、一瞬にしてかき消えた。
「ああ、リーゼ…… 。はじめまして!」
代わりに目の前に現れたのは、感極まったような声をあげる空色のもふもふだった。
リーゼロッテのぼやけた視界の先で、それは最初、大きめの毛玉のかたまりのように見えた。
しかし、よく見ると、なにかの形をしているようだ。
なんだろう?
………… ねこ……?
そこにいるのは、そう、猫だった。まるで晴れた空のような色合いをした、ちいさな猫のぬいぐるみが、ずんぐりとした二本の足で立っているのだ。
そのぬいぐるみは枕元に立ち、丸い瑠璃色の瞳でリーゼロッテを見つめていた。口元にあたる部分には丁寧な黒い刺繍がほどこされ、半ば空色の毛に埋もれながらも、かすかに微笑んでいるように見えた。
「だれ……」
リーゼロッテの乾いた唇が言葉を紡いだ。
喋るぬいぐるみを奇妙に感じたが、驚きは薄かった。
こんこんと眠りつづけた状態から覚めたばかりの頭はぼんやりとして、まだ半分は夢の中にいるようだった。自分の置かれた状況をきちんと飲みこめてはいない。
リーゼロッテの言葉を受けて、ぬいぐるみは太くて短い手を胸にやると、うれしそうに答えた。
「僕はパルム。魔法の猫です」
遠くから響いているようだったあの声が、いまはすぐ側から聞こえている。
「まほう……?」
おうむ返しをするリーゼロッテに、パルムと名乗ったぬいぐるみは、こくりとうなずいた。
「魔法で動いているのです。親愛なるリーゼ」
魔法。それがこの世界のどこかに存在することは、うっすらと知っていた。その不思議な力に、ほのかに憧れを抱いてもいた。
でも、非常にめずらしいものだと聞くし、実際に見たことはない。偉い人たちの仕事のために存在するものであり、リーゼロッテのような子どもには、縁のないものだと思っていた。
本当のことなのか夢なのか理解できずに、リーゼロッテは再び「まほう……」とつぶやいた。
パルムはうんうんとうなずいた。
「どうか起きてください、リーゼ」
ぬいぐるみはそう乞うた。おだやかなゆったりした物言いだが、その低い声にはあの必死さが宿っていた。
「僕はあなたと友達になりたいのです。リーゼロッテ。ゆっくりでいいからベッドの外に出て、そして一緒に遊んでくれませんか?」
パルムはくりくりした大きな目でリーゼロッテを見つめた。ガラスの瞳でひたむきに見つめてくるぬいぐるみは、とてもかわいらしかった。
「おきるの、いやなの……」
リーゼロッテはゆるゆると答えた。言葉を紡ごうとしても、全身がだるくて、うまく力が入らない。苦しく肺から押し出す息にのせて、ささやくように言葉をもらす。
「めをつぶると、おかあさまに、会えるの。あけると、いないの。だから」
カラカラに渇いた口で、心のうちをゆっくりと絞り出した。
「めをあけるの、いや……」
とぎれとぎれの子どもの言葉が終わるのを、パルムは無言で見守っていた。
ぬいぐるみはしばらく考えこむように黙りこんでから、静かに動いて、リーゼロッテの顔にふわりとよりそった。
そして、彼は子どもの頬を慈しむように何度もなでた。
「そうですね……。……でもね、目を閉じてお母様が見えるのなら、開けていても見えるようになります。少し時間はかかるかもしれませんが、きっと。その方法を一緒に探しませんか?」
次第に熱を増していく口ぶりで語ったあと、パルムは顔を少し離すと、リーゼロッテの瞳を見つめた。
「僕はあなたが大好きなんです。一緒にいたいのです。世界一かわいいですよ、リーゼロッテ」
パルムはそうはっきりと告げた。
『あなたが世界で一番大切よ。リーゼロッテ』
これまでの人生で覚えている限り、そのような言葉を贈ってくれたのは、母親だけだった。
子ども心にも不思議だった。会ったばかりの相手に、世界一とまで言ってもらえる心当たりはない。
だけどパルムの口調からは、その真剣さが伝わってきた。その瞳も、誠実さを証明しようとするかのように、たえず女の子をじっと見つめていた。
よくわからなくなって、子どもはぬいぐるみをだまって見つめた。どうしてそんな風に思ってくれるのだろう。
パルムは言葉をつづける。
「お母様が消えてしまったなんて思わないでください。いつだってあなたとともにいるのです。いまは見えないだけです」
ぬいぐるみがしゃべってる……。
少し頭が冴えてきて、いまさらながらにリーゼロッテはその不思議さに打たれた。
これは、本当に魔法というものなのだろうか。
パルムは魔法使いなの……?
「この世界には、まだまだたくさん楽しいことや、しあわせなことがあるのですよ。それをあなたと一緒に探したいのです」
パルムの訴えは真摯だった。
不思議な魔法。ふわふわなぬいぐるみのお友達。たくさんの楽しいことやしあわせなこと。
そして、目を開けていても、いつだって側にいてくれるお母様。
リーゼロッテの胸にかすかな好奇心が宿った。
「……どうしたらいいの?」
痩せやつれた顔を枕に横たえたまま、ぽつりと尋ねた。
パルムの表情のない顔に、明るい笑みが浮かんだ気がした。
「では、僕と友達になってくれますか?」
「うん」
「よかった。それではまず、一緒にご飯を食べてくれませんか? 少しだけでも。スープだけでもいいのです」
「ほしくないの」
「無理にとは言いません。ですが…… 」
パルムは少し考えるように言葉を切ると、つづきを一気にまくしたてた。
「ほら、僕はぬいぐるみだから、自分では食べられないのです。口元だって、見てください、ただの刺繍です。実はぬいぐるみの猫は、人間の友達が食べているのを見て、元気をもらってお腹がいっぱいになるものなのです」
そう熱心に語ると、パルムは急にペタリと座りこんだ。
「お腹すいた……」
リーゼロッテは、肩を落とすぬいぐるみを少々驚きながら見つめた。純粋な子どもは、いきなりぐったりした彼の様子を不審に感じることはなかった。本当にお腹がすいているのだろうと、言葉どおりに受け取って、かわいそうに思う。
それに、カラカラに渇いた口で話しているうちに、不快感が増してきて、次第に耐えがたくなってもいた。食欲はないが、少し水で湿らせたい。
「スープなら、いいよ」
リーゼロッテの返事に、パルムはぴょんと飛び上がった。
「さすがはリーゼです。さっそく用意しましょう。温かくてとびきりおいしいものをね」
部屋を出る前に、パルムはリーゼロッテの頬に口づけをした。
実際は、ふわふわの顔をむぎゅっと押し当てられただけだったが。
「大好きですよ。僕の大切なリーゼ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます