4.凍る過去の日々

 あれはたしか、灰色に沈む窓の外に雪の舞う、ひときわ寒い日のことだったと思う。

 なにやら屋敷の中がざわざわと騒々しくて、大勢の知らない人たちが、あわただしく出入りしていたことを鮮明に覚えている。


 リーゼロッテは、お気に入りの大きなピンクのうさぎのぬいぐるみを抱きかかえて、母・アリーシャの部屋から出てきた。


(おかあさま、いなかった。どこなの?)


 病気のため自室で寝ているはずの母がいない。それだけではない。なぜか今日は使用人もほとんど姿を見せてはくれない。

 朝食を済ませたあと、メイドからは自室でひとりで遊んでいるように言われたのだが、いつまでたっても誰も構ってくれないので、すっかり退屈していた。

 おとなしくお絵かきをしたあとで、人形に語りかけながら髪をとかしてリボンを飾り、ぬいぐるみに絵本を読み聞かせていたが、どれも飽きてしまった。


 どこかへ行こうと廊下につづくドアを開けたとき、流れこんできた冷たい空気が、子どもの胸にちくりとちいさなトゲを刺した。

 いつもの、ゆったりと包みこまれるような我が家には存在しないはずの、神経を逆立てするような、かすかなざわめき。それを、耳で肌で感じとった。


 リーゼロッテは、うさぎのぬいぐるみに顔をうずめるようにして、ぎゅっと抱きしめた。

 急ぎ足でアリーシャの部屋に向かい、そこに求める姿はないのを確認したところだ。


「エステル。おかあさまは、どこ?」


 母の不在。遠く、下階から聞こえる耳慣れない喧騒。

 不安な気持ちを押さえきれずに、自分付きの若いメイドのほっそりした姿を見つけるなりたずねた。

 リーゼロッテにとって、赤子の時から世話をしてくれているこの忠実なエステルは、母親の次に大好きな人だった。


 母は、風邪をひいたのだと聞いていた。このところ、いつもベッドに寝ていたはずなのに。どこへ行ったのだろう?

 もう何日も、何日も、いまは体調が良くないから会えない、部屋に入ってはならないと言われていたから我慢していたのに。


「おへやにいないの。ごびょうきはいいの? もうねてなくていいの?」


 エステルはしばし、ためらいの表情を浮かべたあと、力なくかがみこみ、両手でリーゼロッテの片手をとって包んだ。

 そして、同情こめた目を向けると、弱々しい声で語りかけた。


「もうお母様はご病気で苦しむことはないのですよ。安らかな天の国に行かれたのです」


 赤く腫れた目だった。その遠回しな告白は、子どもには伝わらなかった。

 だが、しっかり者の彼女の声にいつもの元気がなく、気弱な笑みを浮かべていることが、リーゼロッテの心をますますざわつかせた。


「てんのくにってどこなの? わたしも行きたいわ」


 それを聞いて、エステルはたまらないように、リーゼロッテを抱きしめた。


「ああ、お嬢様。おかわいそうなお嬢様。いまは行けないのです。神様がお召しになるまでは誰も行けないのですよ」


 使用人たちは皆、力を落とし、あるいは涙にくれていた。

 大人が泣く姿は、なんだか怖い。


 落ち着かずに歩き回っていると、一階の普段は静かな客用寝室に、人が出入りしているのが見えた。屋敷の中で、最も高級な調度品でしつらえられたその部屋は、少し近づきがたいけど、特別なお客様に向けておすまし顔をしているところが、子どもにとっては憧れでもあった。


そちらへ行ってみようとしたところ、エステルに腕を引かれた。


「お嬢様。あの……」


 彼女はなにかを言いよどんだ。少し目をそらしたあとで、心を決めたかのように言った。


「一緒に参りましょう。どうかお心をおだやかに……」


 エステルに手を引かれて客用寝室に入ると、綺麗な純白のドレスを身にまとった母が、紅をひいた美しい白い顔でベッドに横たわっていた。

 リーゼロッテは、だまったままその姿を見つめた。

 数日ぶりに恋しいお母様と会えたのに、なぜだろう。喜びがわいてこない。

 動かない母の美麗な顔。まぶた、まつ毛、口元。なにかがおかしい。えたいの知れない胸のざわめきが大きくなる。

 

 リーゼロッテはどうしてか、その不安を素直に表現することが怖かった。


「ねむっているの?」


 努めてなんでもないように問うと、エステルは言葉につまった。


「きれいなドレスね。お出かけするの?」


 それを聞くと、メイドは片手で顔を押さえて涙を流しはじめた。声を押し殺すようにして、リーゼロッテの手をドアの方へ引く。


「さあ、もう……こちらへ……」


 なにか良くないことが起きているのだと、気づかないままではいられなかった。それでも、母が死んだのだ、二度と会えないのだと、そのときは理解することはできなかった。


 ずっと後になってから思ったことだが、いきなり事実を受け止めると幼い心が壊れてしまうから、無意識のうちにあえて理解することを拒んでいたのかもしれない。


 母のぬくもりを求めても得られない寂しさと、環境が変わってしまった心細さから、リーゼロッテに異変が起き始めた。

 元々、良くも悪くも物事に感じやすい質ではあった。

 エステルがすぐに母の死を報せずに、慎重に機会をうかがっていたのも、幼い主のこのような気質を熟知していたからであった。

 春の陽だまりのようだと母から称された笑顔を失い、自分の部屋にばかり閉じこもるようになった。


「お嬢様、おやつをお持ちしましたわ」


 いっこうに起き出してこない主を気づかって、エステルは無理に笑顔をつくり、朗らかに声をかけた。

 返事はない。ベッドのまるいふくらみは動かない。


「今日はお嬢様の大好きなプリンですよ。クリームがたっぷりのっていて、ほら、こんなにおいしそうですよ。すくってさしあげますから、ひとくち食べてみましょうね?」


 気を引くような言葉をかけて、しばらく立ちつくして反応を待っていたが、やがてメイドはあきらめて部屋を出るしかなかった。テーブルの上に残してきたプリンとミルクティーは、おそらく手がつけられることはないだろう。

 自分で食事をしないとなると、またあとで無理矢理抱き起こして、小さな口にスープや薬湯を流しこまねばならない。それは気鬱な作業だった。


 エステルの努力もむなしく、自分で食べる気力を失ったリーゼロッテは、みるみるやせ細っていった。

 食欲がなくなっただけではない。物事に関心を示さなくなった。顔色は青く黒く不健康なものとなり、目は落ちくぼんで深いくまができた。

 大きな青い目ばかりが無感情にギョロギョロして、まるで骸骨のようだと、彼女を良く思わない親族たちはうわさした。


 その後、少なくない使用人が月夜の漣邸をやめていった。いまやこの屋敷の主は、親族から疎まれている五歳の女の子ただひとりだ。この先が見えないし、使用人の生活を守ってくれる保証もない。

 近いうちに子どもはどこかに引き取られて、屋敷は人手に渡るともうわさされていた。


 屋敷内をしっかり取り仕切っていた女主人を突然失ったことで、仕事の指揮系統も混乱していた。

 主の不在に加え、メイド長がよそに移ったことで、仕事の手を抜く者もあらわれた。


「ちょっと! この忙しいときに、なぁに本なんか読んでのんびりしてんのよ」


「お互い様でしょ。あんたが優雅にお茶してる間、あたしは床掃除してたんですけど!?」


 働く者の間で頻繁に争いも起きた。ひとり、ふたりと人が減ってゆくことで、残された者への負担は増していった。

 より安定した雇用先が見つかった人々は、静かに、いそいそとそちらへ移っていった。


 残ったのは、年齢や病気などの理由で再雇用先を確保することが難しい者たちと。

 そして、いまも亡き奥方を心から慕っており、リーゼロッテを大切に思っているため、この屋敷がどのような有様になろうと離れられない者たちだった。

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