第31話 一歩
☆☆☆☆☆
なぜあんな事を言ってしまったのだろう。
遠希は私の事を嫌な子だと思っただろう。嫌いになったかもしれない。
遠希に嫌われたら私は……。
ピンポーンと軽やかに電子音が鳴る。
顔を上げると、いつの間にか室内は暗くなっていた。
何時間、私はこうしていたのだろう……。
またチャイムが鳴った。
誰か知らないが、とても出る気にはなれなかった。
今は人と
三度目のチャイム。
しつこい勧誘か、あるいは――
そんな事を考えていると、ガチャと玄関の鍵が開いた音がした。
鍵を持っているのは、大家さん等を除けば三人だけ。私と母、そして――
遠くで扉が開き、誰かが入ってくる。
少し慌てた様子の足音が近付いてきて、
「うお」
近くでそんな声がした。
「何してんだよ、電気も
声と共に、リビングに電気が点けられる。
急に光度が上がったため、一瞬、目の前が真っ白になる程の眩しさを感じた。
「てか、電話出ろよ。ラインも無視するし」
そういえば、
「心配したんだぞ」
そう言って、遠希が近付いてくる。
それだけで、感情がぐちゃぐちゃになる。恥ずかしさ、後悔、怒り……。様々な感情がごっちゃになって、自分でもよく分からなくなる。
「どうした?」
隣に遠希が座る。
ダメだ。感情が
涙が
「おい、どうした? なんで、泣くなよ」
遠希が慌てたような声を出し、私を横から抱きしめる。
それがスイッチになり、更に私の感情は外へと溢れ出してしまう。もう声を殺す事は出来なかった。子供のように声を上げて私は泣いた。
そうして、どのくらいの時間が経っただろう。
ようやく私の感情は落ち着きを取り戻し、涙もあまり流れなくなった。
「落ち着いたか?」
遠希の言葉に、私はこくりと
「で、どうした?」
「私、遠希にひどい事言った」
「別に気にしてないよ」
「絶対嫌われたと思った」
「だから、気にしてないって」
「ホント?」
「ホント。じゃあ、この話はおしまい。俺は気にしてないけど、
私の頭をポンと一つ叩き、遠希が立ち上がる。
「飯作らないと。もういい時間だしな」
「あ」
そうか。遠希が帰ってきているという事は、すなわち、本来ならもうすでに夕食を作り終えてないといけない時間という事だ。
「私が――」
「いいって、ぼんやりして指でも切られたら大変だし」
立ち上がり料理をしようとした私を、そう言って遠希が制す。
遠希は私を大切にしてくれる。危ない事から守ってくれるし、いけない事をしたら叱ってくれる。悲しい事があればさっきみたいに慰めてくれる。けどそれは、私を子供だと思っているからだろう。大人は子供を守らないといけない。導かなければいけない。だけど、それじゃ私は――
台所へと向かう遠希の背中に、後ろから抱き着く。
「苺花?」
突然の私の行動に、遠希が戸惑ったように顔だけ動かして後ろを見る。
「好き」
「え?」
「好きなの、遠希の事が。だから、私は許せなかった。別れたはずの、フラれたはずの高橋先生と遠希が楽しく話してるのが」
フったくせに普通に話す高橋先生が許せなかった。それを受け入れている遠希が許せなかった。そして、私以外の女性に遠希が優しい笑顔を向けるのが許せなかった。
全部私のわがまま。分かっている。けど、こればかりはどうする事も出来ない。抑える事は出来たとしても、消し去る事は出来ない。だって、私は遠希の事を好きだから。
「好きです、あなたの事が。世界中の誰よりも、大好きです」
「……苺花」
私の拘束を優しく解き、遠希が振り返り、私と向き合う。
「俺は教師で、お前は生徒だ。その意味分かるよな」
「分からない。分からないよ。だって、この気持ちは、思いは、そんな理屈を並べられても消えないんだから」
本当は分かっている。ここでこうしてわめく事が子供の証だという事も。分かっている。だけど、分かりたくない。分かってしまえば届かないから。この思いが永遠に遠希の元に届かないものになってしまうから。
「俺の事、本当に好きか?」
「うん。好き。何より、お母さんよりも」
「それはうん、どうなんだろう」
私の返答に、遠希が苦笑いを浮かべる。
困っている。やはり、私なんか眼中にないんだ。そりゃ、そうだよね。男はみんな高橋先生みたいな大人の女性が好きだもんね。私なんて色気のないちんちくりん、恋愛対象になるわけないよね。
「だったらさ」
「え?」
思わぬ言葉に、私は驚き、
「後三年。その思いはしまっておいてくれ」
「三年?」
「そう。高校を卒業して、それでもまだお前が俺の事を好きだったら、もう一度その言葉を聞かせてくれ。それまで俺は待ってるから」
「それって……」
「それ以上は言うな。口に出したら意味ないだろ」
大人はズルい。そうやって、暗黙の了解みたいなものを私達に押し付けてくるから。言葉にしてもらわないと分からない事もあるのに。言葉にしてもらわないと不安な事もあるのに。
「むぅ」
「そんな顔してもダメなものはダメなの」
「とりあえず、飯食おう、飯。今日は時間ないからチャーハンな」
そう言って台所に向かう遠希。その頬が赤く染まって見えたのは、私の願望から来る目の錯覚だろうか。
☆☆☆☆☆
私の目の前にある画面上には、数百もの文字が並び、その文字達が互いに絡み合い一つのシーンを形成していた。
「出来た」
その光景を前に、私は一人そう
場所は自室。周りに人はおらず、別にもう少しリアクションをしてもいいのだが、今はそういう気分でもなかった。
まぁ、たかが一シーンに一喜一憂していては気持ちがもたないし、こんなものだろう。
あれだけ書きあぐねていたというのに、書き始めたら二時間足らずで一つのシーンが出来上がってしまった。
興が乗ったというやつだろうか。
まるで物語が自分から私にこうしたいと主張するかのように、手が自然と動いていた。
後で見直しはしないといけないが、誤字脱字以外に直さなければいけない部分はおそらくないだろう。なんとなくそんな実感めいた感覚が、今の私にはあった。
「はー」
それまで溜まっていたものを全て吐き出すように、私は大きく息を
まるで気分は短距離走をした後のようだった。
急激に頭を回転させたせいで少し頭が痛い。思えば、執筆している間、何も口にしていなかった気がする。水分が足りていないかもしれない。
テーブルの上のコップを手に取り、それを口に運ぶ。
中身はアイスコーヒーだった。執筆中は大体、コップにこれを入れている。
水分に加えカフェインを取り入れたためか、頭痛が
知識に寄る思い込みかもしれないが、今はどちらでもいい。頭痛が和らいだ、その事実が今は重要だ。
今書き上げたこのシーンは、主人公の女子高生が好きな男性に告白する、中盤の一つ目のクライマックスに繋がる大事なシーンだった。
告白。これがあったから私は、このシーンをずっと書きあぐねていたのだ。
執筆経験の少ない私は、シーン展開に実体験を絡める事が多い。想像ではカバーしきれないからだ。そして、それはキャラクターのパーソナルな部分も同じで。
主人公の女子高生は、一見明るいがその実色々と考えて、ネガティブな思考になる事も少なくない女の子。
一方、そんな彼女の相手となる男性教諭は、飄々としており一見頼りなさそうに見るが、ここぞという時は人のために動け相談にも乗ってくれる、頼りになる男性。
どちらも、私のよく知る実在する人物を元に作成したキャラクター。
……そう。このキャラクターのモデルになっているのは、私とせんぱいだ。そしてその事は、意識してみれば容易に分かるらしい。現に、千里さんには気付かれてしまった。
つまり私は、私に似せたキャラがせんぱいに似せたキャラに告白するシーンをどうしても書く事が出来ず、苦戦していたのだ。
ただ単に似せたキャラ同士というだけなら何も問題はなかった。
問題は私と主人公の気持ちがリンクしているところにあった。
これを読んだせんぱいが、その事に気付くのではないかと私は心配していた。けどその心配はもう必要ない。なぜなら、私はこの気持ちをせんぱいに伝える事にしたからだ。
勘付かれもいい。むしろ勘付かれた方がいいくらいだ。
多分、せんぱいは私をそういう対象として見ていないだろう。
つまり、告白したところで、まずはそういう対象として見るか見ないかという、付き合う付き合わない以前の選択肢がせんぱいの脳内には浮かぶ事になるわけだ。
これは相当なハンデではないだろうか。合否発表の前に、そもそも試験を受ける資格があるかどうかを判定されるわけで、このワンクッションはその後の本命にマイナスな影響を与える可能性がある。
仮に、どちらもオッケーだとしてもその場で判定を下してもらえないかもしれないし、本当はオッケーなのにワンクッションのせいで考えが変わるなんて事も有り得るかもしれない。
なので私は、今日一つの決心をした。
さり気なくせんぱいに、私をアピールするのだ。
そうする事によって、私をそういう対象に加えてもらおうと、そういうわけだ。
……決して告白する踏ん切りが付かず、臆したわけではない。あくまでも、作戦だ。告白の前の下ごしらえ。告白も料理と一緒。まずは事前の準備が必要なのだ。
とはいえ、露骨なアピールは良くない。怪しまれるし、嫌がられるかもしれない。そのため、この作戦はさり気なく行われなければならない。
一番手っ取り早いのは服装だろう。
おそらく、せんぱいは私の服装にあまり興味はないはずだ。いや、まず、あの人は人の服に興味があるのか? 余程奇抜な格好でない限り、気にしないのではないだろうか。それでは困る。僅かばかりでも「おっ」と思ってもらわないと。
……前途多難だ。
せんぱいの場合、こちらがいくらアピールしても気付かれない恐れがある。
まぁ、そうなったら、次の手を考えよう。
まずは明日、軽めのジャブから打ち込んでいこう。
そうと決まれば、明日着ていく服選びだ。
実は買ったはいいが、外に着ていくまでに至らなかった服がタンスの中には何着もある。それらを上手く着こなして、せんぱいに今日はいつもとどこか違うなと思わせよう。
とはいえ、やり過ぎはマイナス評価に繋がり兼ねないので、その辺の
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