第39話 感情

 教室に入ると私は、まず初めにせんぱいの姿を捜すべく、軽く室内を見渡した。


 ……いた。

 奥側の真ん中付近の席、そこにせんぱいは一人で座っていた。


 せんぱいの元に向かうため、足を一歩前に踏み出――そうとして、その動きが止まる。


 まるで金縛りにでもあったかのように、足が一向に前へと踏み出せない。

 緊張のせい? それとも……。


「!」


 背後から背中を押され、反射的に右足が一歩前に出る。

 振り返ると、めぐみんが呆れ顔で私の事を見ていた。


「さっさと行く」

「……うん。ごめん」


 驚いたお陰か、先程まで感じていた足の重みはいつの間にか綺麗きれいさっぱり無くなっており、スムーズに足が前へと進んだ。


「あの……」


 せんぱいの側まで行き、そう声を掛ける。

 顔をこちらに向け私を見ると、せんぱいは一瞬目を見開き、しかしすぐにその表情を戻し、


「よぉ、鈴羽すずは風邪かぜはもういいのか?」


 いつもの顔で私を出迎えた。


「あ、はい。寝たらすっかり治っちゃって。ご心配お掛けしました」

「いや、それは、まぁいいんだけど。……座るか?」


 せんぱいの言葉にうなずき、私はその隣に腰を下ろした。


「にしても、お前が風邪で学校を休むなんて珍しいな」

「……ちょっと、お風呂上がりに考え事をしてしまって、かみを乾かさずに一時間程ぼっとしてました」

「……そうか」


 私の言葉から何かを察したのか、せんぱいの声の調子が少しダウンする。


「せんぱい、昨日のラインの件ですけど……」

「あぁ。五時限目が終わったら、ハクアでその話はするよ」


 ハクアとは、先日前にも二人で行った、大学近くにある、あの喫茶店の名前だ。店の名前の由来は、残念ながら私は知らない。


「そうですか……」


 別に、今ここでその話をしたくて話題をふったわけではない。ただの確認だ。


「俺の考えはちゃんと言うし、鈴羽の考えもちゃんと聞く。その上でまだ俺の事を許せないって言うのなら、俺が出来る範囲でなんとかしようとは思ってる」

「私は……」


 私は、なんだ?

 私はどうしたい? どうして欲しい? その答えは、まだ全然出そうになかった。


「いいよ。それについては、後でゆっくり話そう。それより今は、下らない話をしないか?」

「下らない話、ですか?」

「そう。取り留めもない、毒にも薬にもならない話をしよう。例えば――」


 そう言ってせんぱいは少し考える素振そぶりを見せる。


「昨日見たテレビの話とか」

「昨日は帰ってすぐ寝てしまって、一度起きた後もテレビは特に見ていないので……」

「あー。そうか。じゃあ、千里せんりのドジな話とか」

「千里さんがドジ踏む事なんてあるんですか?」


 完全無欠の完璧超人とまでは言わないが、千里さんはそれに近いイメージがある。


「千里がドジする事なんて、しょっちゅうだよ。この間も――」


 その後私達は、授業が始まるまで他愛もない話を、お互い好きなように話した。

 いつも通りとはさすがに行かなかったが、思ったよりは幾分いくぶんもマシな会話を私は、せんぱいと交わせたと思う。


 そして、四時限目の授業が始まり……やがて終わる。




 五時限目は別々の授業をお互い受けたため、中庭で待ち合わせをして、二人連れ立ってハクアに向かった。

 せんぱいが先に店内に入り、私がそれに続く。


 店内はいており、お客さんは奥のボックス席におじさんが一人座っているだけだった。

 私達は一番手前のボックス席に、テーブルを挟んで向き合って腰を下ろし、程なくして注文を済ました。


 お互いの飲み物が来るまで、適当にせんぱいが場を繋ぎ、店主がカウンターに戻ったのを見計らって、ようやく本題に入った。


「まず確認しておきたいんだけど、鈴羽がその、怒ってるのは俺がことりと会ってたから、だよな?」

「……はい」


 改めてせんぱいの口から聞かされると、自分で自分がよく分からなくなる。


 私は一体、せんぱいのなんなのだろう? ただの後輩のはずなのに、そんな事で腹を立ててせんぱいを困らせて……。でも、感情というものは厄介で、自分で全てをコントロールする事は、少なくとも今の私には出来そうになかった。


「そうか……」


 つぶやくようにそう言うと、せんぱいがアメリカンの入ったカップを口に持っていった。

 一口それを飲み、再び口を開く。


「もしかしたら、俺のしてる事はおかしいのかもしれない。別れた、しかも振られた相手と普通に会って、会話をしてるなんて」

「……」


 せんぱいのその言葉に、私はイエスともノーとも言えなかった。私には誰かと別れた経験はおろか、誰かと付き合って経験すらないのだから。


「それでも、あえて言い訳をさせてもらうと、多分俺達は本当の意味で付き合ってなかったんだと思う。だから、今でも普通に会って普通に会話が出来る。俺はそう自分自身の事を……認識、してる」

「それはどういう……?」


 付き合う事に本当もうそもないだろう。それとも、周りの目を誤魔化ごまかすために偽装カップルでも演じていたとか?


「俺達は最初気の合う友人だった。一緒にいて面白いとかすごく話が合うとかじゃなくて、一緒にいても疲れない、無言が苦痛じゃない感じの」

「一番理想のカップルじゃないですか」


 面白いはいつか無くなるかもしれない。けど、居心地の良さは余程の事がない限り無くならない。そう、余程の事がない限り。


「俺も付き合う時はそう思ったよ。俺達なら上手く行く。行かないはずがないって。でも、俺達の関係は付き合い始めても変わらなかったんだ。いや、変えられなかったんだ」

「それはいけない事なんですか?」


 別に、付き合い始めたからって、無理に関係性を変える必要はないように私なんかは思ってしまう。それこそ、友達みたいな夫婦もこの世にはいると聞く。


「けど、俺達はそれじゃダメだったんだ。初めにことりがその事に気付き、俺は別れて少ししてから遅れてその事に気付いた」

「何がどうダメだったんですか?」

「果たして自分達は付き合う必要があるのか」

「え?」


 質問の答えとは違う言葉を聞かされて、私は一瞬思考が追い付かなかった。


「そこに思考が行き着いてしまったんだ。だってそうだろう? 恋人らしい感情をお互いに抱かず、今までとさほど変わらない日々を過ごしていて、それでも尚を恋人関係を継続する意味なんて普通に考えてないだろ?」

「それは……」


 分からない。その感覚は、おそらく当事者にしか分からないものだろう。


 周りからそう言われて否定するカップルもいれば、せんぱい達のように自らそう結論付けるカップルもいる。人それぞれ、カップルそれぞれの感覚が、そこにはあるのだろう。


「そういう意味では、俺達は本当の意味で付き合ってなかったんだと思う。だから、別れた後も気まずさがそれ程なく、変な意識なく会えるのかなって俺は思う。向こうが本当はどう思ってるのかは知らないけどさ」


 そう言ってせんぱいは、苦笑いをその顔に浮かべてみせた。


「それでも、私にはやっぱり理解出来ません。小鳥遊たかなし先輩とせんぱいの関係性が」


 せんぱいの言いたい事は分かる。分かる、けど――


「だって、せんぱい。私に小鳥遊先輩の事を話してくれた時、苦しそうだった。それはせんぱいが、小鳥遊先輩にフラれて傷付いたからじゃないんですか」


 少なくとも、せんぱいの話を聞いて私はそう感じた。だから、許せないと思った。そんな顔をさせたにも関わらず、せんぱいに普通に話し掛けてくる小鳥遊先輩が。そんな顔をさせられたにも関わらず、小鳥遊先輩と普通に話すせんぱいが。


「当時の俺はまだことりと別れたばかりで、確かに別れた事を引きずってたかもしれない。けど、だからと言って、ことりに何か悪い感情を抱いてたかと言うと、決してそうじゃないし、引きずってたのもほんのひと月くらいの話だから……」

「だからなんですか。それでもせんぱいはあの時――!」


 自分でも驚くほど大きな声が出て、私はようやく自分が、ヒートアップし過ぎている事に気が付く。


 顔に熱が集まり、カーっと熱くなる。

 辺りを見渡すのも怖くて、私はうつむき、テーブルに視線を落とした。


「鈴羽って優しいよな」

「え?」


 何を急に……?


「だって、俺が傷付けられたと思ったから、ことりに対して怒ってるんだろ? 自分のためじゃなく、人のために怒れるのは優しい証拠だよ」


 そうじゃない。そうじゃない私は……。


「まぁ、とはいえ、用も済んだ事だし、ことりともこれからはそんなに頻繁ひんぱんには会わないと思う。大学も違うし、予定も立てづらいだろうからな」

「……よう?」

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