第37話  四十点

 四時限目が終わると俺は、教室前で千里せんりと別れ、一人次の教室に向かう。


 結局あの後、一時間ほど七瀬ななせにレポートの書き方の指導をし、ちょうど二時限目が終わる頃に俺は一度家に戻った。

 家では本を読んで過ごし、およそ二時間後に再び家を後にした。


 五時限目はどの学年も選べる選択科目。俺と、鈴羽すずはもこの授業を選択している。


 千里の話を聞く限り、鈴羽は一昨日の事を気にしているらしい。

 確かに鈴羽は、高校時代からことりの事を毛嫌いしている節があった。だけど、それは俺が思っているよりはるかに強い感情だったようだ。

 俺の話し方が悪かったのか、それとも他の理由か、とにかく俺は、どうやらそれを盛大に見誤ったらしい。


 教室に入ると、その中に鈴羽の姿を捜す。


 どうもまだ、やつは教室に来ていないようだ。

 その事に対し一瞬ほっとした自分を見つけ、心底自分で自分の事が嫌になる。


 とりあえず、いている後ろの席に一人で座る。


 まったく、鈴羽相手にこんな感情を覚えるなんて、少し前までなら考えも付かなかった。いや、それを言ったら、最近はそんな事の連続な気がする。


 鈴羽が大学に入学してきて、本当に色々な事があった。

 それまで比較的穏やかだった俺の大学生活が、あいつの乱入により騒がしくまた疲れるものへと変わった。その事を面倒だとは思うが、嫌だとは思わない。なんやかんや言っても、気に入っているのだろう。俺自身、今の大学生活を。


「たーれだ?」


 ふいに背後に人の気配がして、次の瞬間、その声と共に視界がふさがれる。

 考えるまでもない。この声は――


豊島とよしまさん」

「ちぇ、つまんないの」


 背後からそう不満まじりの声がして、それと同時に、俺の視界がクリアなものに変わる。


「声、似てませんでした? 鈴羽に」

「うーん。四十点ってところかな」

「低っ」


 確かに、先程の声は少し鈴羽に似ていた。電話越しで、尚且なおかつ寝起きなら、もしかしたら間違えたかもしれない。そのくらいには似ていた。


「自信、あったんですけどね」


 そう言いながら、豊島さんが俺の隣に腰を下ろす。


「鈴羽は?」

「なんか、せんぱいの顔見たくないって言って、帰っちゃいました」

「……」

「はい。うそです。本当は、調子悪くて今さっき帰りました。風邪かぜかなって感じです」

「そうか」


 鈴羽は体が弱いわけではないが、特別強いわけでもないので、年に何度か風邪を引く。しかし俺が知る限り、それを理由に授業を休んだ事は今までなかった。慣れない環境で疲れが出たか、あるいは――


「心配ですか?」

「まぁ、それなりには……」

「そうですか」


 特に興味があったわけではないのか、自分から質問をした割にその反応はかなり薄味だった。


「ところで、香野こうの先輩」

「ん?」

「鈴羽と何かありました?」

「……なんで?」

「いや、なんか、風邪って事もあったんでしょうけど、鈴羽の感じが少しおかしかったというか、落ち込んでいたというか……」

「落ち込んで……。そうか」


 その心当たりはあるかと聞かれれば、あると答えるしかないし、実際それが原因の可能性もなくはないわけで……。


「何かあったんですね」

「少し、ね」

「まぁ、詳しくは聞きませんけど、出来るだけ早めにフォローしといてくださいよ。落ち込んでる鈴羽なんて、ヒゲを抜かれた猫並みに、見てるこっちが落ち着かないんですから」

「いや、それは……」


 さすがに言い過ぎじゃないか。ヒゲを抜かれた猫は、もうなんか……とにかく、すご可哀相かわいそうだ。というか、虐待ぎゃくたいだろ、普通にそれ。


「私にとっては、って話ですよ。立ち直させるために、なぐさめたり怒らせたりする、こっちの身にもなってくださいよ」

「そう言われても……」


 困る。


「香野先輩、鈴羽はアゴの下の辺りをこちょこちょすると喜ぶとか喜ばないとか」

「それは、猫の話だろ」

「似たようなもんじゃないですか」

「君は、自分の友達をなんだと思ってるんだ」

愛玩あいがん動物?」

「……なんか急に、席を移動したくなったんだが、少し後ろを通してもらえないだろうか」


 残念ながら、俺の選んだ席は壁際で、豊島さんが椅子いすを引いてくれないと、ここから俺は脱出出来ない状況となっていた。

 まさか、初めからこれが狙いで……。


「やだなー。冗談ですよ。冗談」

「どうだか」


 俺の中で豊島さんへの信頼度は、現在進行形で低速落下中だった。


「と、とにかく、香野先輩は鈴羽へのフォローを頑張ってくださいよ。なんなら、このあと鈴羽の家にお見舞いでも」

「見舞い、ね……」


 今の状況で鈴羽の家に押し掛けるのは気が引けるが、見舞いという名目があれば……。


「あ、ダメだ。今日俺、バイトだった」


 しかも七時から。


「香野先輩、バイトと鈴羽どっちが大事なんですか!」

「この場合、バイトだろ、普通に」


 鈴羽は別に一人暮らしってわけではないし、ただの風邪ならわざわざバイトを休んでまで行くような病気でもない。というか、こんな事でバイトを休んでいたら、さすがに店の人からひんしゅくをかう。


「じゃあ、ライン。ラインなら送れますよね。スマホで文字打つだけですから」

「まぁ、ラインなら」


 それこそ時間も場所も選ばずいつでもどこでも送れるし、実際に家を訪れる事に比べたら遥かにハードルも低い。


「では、今から私が言う言葉を、そのまま打ち込んでください」

「え? なんで?」

「なんでって。その方がおもしろ――けほん。上手うまくいくからです」

「……」


 やはりこの子は信用出来ない。こと鈴羽に関しては特に。


「香野先輩、どうしたんですか? そんなに見つめて。もしかしてれちゃいました? 私に」

「それはない」

「えー。即答ー? さすがにそれはひどくないですか?」


 俺は事実を素早く伝えただけだ。別にひどくはない。


「豊島さん」

「はい」

「授業始まる」


 教室の前ではいつの間にか入ってきていた教授が、授業の準備を整えながら、ちらりちらりと自分の腕に巻かれた時計を何度も確認していた。


「おっと」


 俺に言われその事に気付いた豊島さんが、慌ててかばんから筆記用具に教科書、それにルーズリーフのノートをごそごそと取り出す。


 俺としては、授業が始まる前に豊島さんは他の席に移動するものだとばかり思っていたのだが、 どうもそうはならないようだ。


 ま、隣で一緒に授業を受けるだけだし、俺が気にしなければそれで済む話か。


「香野先輩」

「なんだよ」

「なんか、いけない事をしてるみたいでドキドキしますね」

「……」


 よし。今日はいつも以上に授業に集中するぞ。隣は見ない。絶対にだ。

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