目覚ましは しゃばだばしゃばだば

 琵琶湖を望む大津市のホテルにて。

 朝7時。


 しゃばだばしゃばだば〜しゃばだばしゃばだば〜


 姫の間延びした歌声で目を覚ました詩織は、無視してシャワーを浴びに行った。飽きるまで歌わせてやろう。けど確かあれは昔の深夜番組のオープニングテーマ、それも成人向けのものではなかっただろうか。勝手にアラーム音を変えるのが好きなのはなんとなくわかってきたが、目覚ましにそれを選択する感覚が理解出来ない。

 シャワーから戻りスマホを手にする。


「おはよう」

「おはようじゃないですよ〜トロくさい。のんきにシャワー使える身分ですか、この無職」

 いつも通りの直垂姿と、普段よりのんびりした罵倒。その姫の足首から先が消えていた。


「ステップアップ式成仏」という意味不明の言葉が詩織の脳裏を一瞬よぎる。もしかしたら幽霊に足がないというのは本当のことなのかもしれないな、と髪を乾かしながら窓の外を見た。昨日の雨はどこへやら、よく冷えた快晴の朝だ。

 今日はまず琵琶湖を周遊し、次に大津市の逢坂山おうさかやまに登る。そして夜に京都へ入る予定だ。


 いよいよかと詩織は覚悟を決める。この旅は、常陸ひたち姫こと菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめを京都へ連れて行くのが目的だ。言い方が妥当かどうかは誰もやったことがないので分からないが、幽霊を成仏させるための旅だ。

 数日前に「私に自殺のお手伝いをさせるということか」と問い詰めたところ


「死んでるからいいんです」

 とのたまいくさった。


 詩織は更級日記の第十二段を開き、姫に聞かせる為に朗読した。


「なで島! 竹生島など! いう所の見えたる! いと! おもしろし!」


 無視。姫は少しほうけているようだ。なんですかそれとでも言いたげな顔をしている。

「なんですかそれ。男塾の真似ですか」

「アンタが書いたんでしょう。なで島って今で言うどこなの」

 おぼえてませ〜ん、とけだるげな声の返答。さすがに成仏しかかってるだけのことはある。だが辛そうには見えないのでその点は気が楽だ。



 近江今津駅に降り、観光船のりばから竹生島へ向かう。ゴンゴンと響くモーターの音にかき消されそうな声がイヤフォンから聞こえた。

「竹生島じゃないですか。前回は遠くから見ただけだったけど、連れてきてくれたんですね」

「『いとおもしろし』とまで書かれてたから、相当印象に残ったのかなって」

 島へ上陸し、長い石段を登る。詩織は激しく息を切らしながらも足を止めない。


「詩織、無理しないでいいですよ。ここまでで十分です」

 珍しく詩織を労る姫の表情は、心配を通り越して悲しげですらあった。


「アンタの為ってわけじゃないんだから、いつもみたいな減らず口叩いてればいいのよ」

 姫はスマホの中でうつむいた。少し経って顔を上げ、笑顔で手を強く叩く。


「じゃあゴーです、ゴー! ゴアヘッド、ハリアップ!」

「やっぱり黙ってろ」

 優しい言葉の後には急転直下の犬扱い。こいつの他人の扱いに中間というものはないのかと勘ぐりつつ詩織は階段を登り続けた。



 宝物殿前の休憩所から琵琶湖を眺め、

「今度は体を動かす仕事に就きましょうかね」

 と詩織はこぼした。20代後半でこの体力の無さだと、老後が心配になる。

「心配しなくても今だって初老みたいなものでしょう」

 心を読んだ姫が毒を吐いた。

 詩織は舌打ちで返し、スマホを琵琶湖に向けた。姫の喜びの感情が機械越しに伝わってきた気がした。



 船を降り、近江今津駅から比叡山坂本駅まで移動し、京阪電鉄の石山坂本線に乗り換える。そして大谷駅まで南下。ここには古くから交通の要所として知られた逢坂山がある。

 更級日記の中でも「駿河の清見きよみが関と、逢坂おうさかの関とばかりはなかりけり(清見が関と逢坂の関ほど心に残るものはなかった)」とある。


「…だったんですけど、今はなーんにもありませんね」

「…石碑が…あるわ…。ここの何がそんなに良かったのか、手短に教えなさいよ」

「ええと、大きめの仏像がぽつねんと…」

 今は国道1号線が走り、東を見れば琵琶湖と大津市が、西を向けば11キロほどで京都へ到達する。


 紫色の空に赤く焼けた雲がたゆとい、カラスが鳴きながらねぐらへと戻る。大谷駅から京都へは、乗り換えを含めても20分もかからないはずだ。


「じゃあ、いいのね? 本当にあと少しで着くけど」

 お願いしますという姫の返答が、いつもよりも小さく聞こえた。

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