名古屋銀玉紀行

 冷たい雨の降りしきる名古屋に降りた菅原詩織は、地下街を歩いていた。名古屋の地下街が日本屈指の広さを誇っていることくらいは知っていたが、なるほど確かに広さもお店の数も圧倒されるものがある。

 土産物屋が固まっている場所を過ぎれば、次のエリアでは様々な飲食店が軒を連ねており、空腹の旅行者の心と胃袋を効果的に狙ってくる。詩織は軽い朝食を摂るつもりで喫茶店に足を踏み入れた。


「490円でサンドイッチ食べ放題って、ここは天国か」

 喫茶店のモーニングセットを満腹まで堪能し、コーヒーを飲みながら詩織は素直に称賛した。軽い朝食どころか、夕方まで何も食べなくて過ごせるだろう。


「詩織のやっすい天国観はどうでもいいとして、お昼でもモーニングとか、すごいところだと夕方までモーニング、閉店までモーニングしているお店もありますね。

いずれも呼び名はモーニング。モーニングという言葉がグッドモーニングのモーニングと同じモーニングなのか、モーニング単体でモーニングを指す言葉なのか。

どちらにせよモーニングがモーニングの意味とは思えなくなってきました」

 姫は右手でこめかみをもみほぐしながら言った。

 詩織は黙って姫を見つめる。こめかみモーミングという言葉を口にするべきか黙っているべきか。

 その視線に気づいた姫が

「なにニヤニヤしてるんですか」

 と問う。詩織は視線を逸らしつつ応えた。

「いや別に」


 詩織は文庫本の更級日記を開き、十一段を読んだ。

「で、アンタは尾張国、鳴海の浦で満潮に慌てたと。今も鳴海って駅あるけど、埋め立てられて海からは遠くなってるわ。行く?」

「うーん、そんなことありましたっけ。

けどどっちみちあんまりいい思い出でもないので、行かなくても良いかなぁ」

 筆者にこだわりはなかった。

「うん、じゃあやめておこう。雨だし」

「そうですね。電車賃もかかるし、傘も買わないとだし。

あ、ところで、旅銀は足りてますか?」

 生前、誰も注意してくれなかったこともあり、姫は話の切り替え方が割と雑だった。


「何よ急に。そりゃ多ければ多いに越したことはないけど」

 詩織は財布を確認する。

「銀行に行けば大丈夫よ。何? 心配してくれてるの?」

「座っているだけで簡単に増やす方法があるんですよ」

 姫は親指と人指し指で円を作り、顔の前に掲げ忍び笑いをした。



 地下街から直接通じている自動ドアの前で詩織は立ち尽くしていた。電光掲示板にはパチンコのキャラクターだろうか、ある者は笑顔で手を振り、ある者は拳を向けてこちらを睨んでいる。


「名古屋はパチンコ発祥の地だそうです」

「ふーん」

「入ったことあります?」

「ない。だって大音量の軍艦マーチが流れてタバコの煙がモクモクで、パンチパーマの店員がいるんでしょう。入る理由も興味もない」

「じゃあ入ってみましょう」

「聞いてよ! 私の話を! だいたい何なのよ、そのパチンコ熱は」

「私がいれば勝てます。保証します」

 詩織はなぜかやる気満々の姫を睨みつける。

「アンタ、悪いことするつもりでしょう」

「大丈夫、絶対バレませんから」

「じゃなくて、悪いことにまで手を染めてギャンブルに勝とうって気がないのよ」

 その時、自動ドアが開いた。店中では若い男女の店員が深々とお辞儀をし、笑顔で詩織を迎えている。まさしく流れで入店してしまった。店内は大音量で最近のヒット曲が流れている。懸念していたタバコの臭いも感じない。何をすればいいかもわからず、詩織は空いている台に腰を掛けた。


 パチンコ台ってこんなに釘が刺さってるんだ、などと思いながら1000円札を入れる。隣の人に注意された。どうやら隣の台の玉貸機にお金を入れようとしていたようだ。

 台に備えられた大きいボタンを押すと、画面が切り替わった。液晶画面の隅っこに、きわどい水着のような、ド派手な下着のような姿で、見たことのない満面の笑みを浮かべた姫が現れる。

 詩織は強く目を閉じた。


「みえますか きこえませんが みえてます」


 言葉はテロップで表示され、その姿は普段よりも明らかにアニメチックになっている。

 腹筋と肩を震わせ、涙で曇った目を漂わせながら詩織は玉を打ち出した。今、姫と目が合ったらアウトだ。周囲が黙々とパチンコを打ち続けている中、当たってもいない液晶画面を見て突っ伏すほど悶絶しているのは明らかに怪しい。


 やがて液晶画面の数字が動いた。姫が数字を強引に動かし、777が3つ揃った。玉がジャラジャラ出てきた。画面には「ちょろいもんですよ」と表示されていた。よくわからないが、大当たりしたらしい。

 隣のおばあさんが詩織の台のレバーを操作し、溜まった玉をどこかに流してくれた。

「 ありがとうございます!」

 大音量の中、詩織は大声で礼を言った。おばあさんは詩織の台の液晶画面を見る。姫が舞い踊っていた。詩織は震えながら血が出るほどに唇を噛みしめる。おばあさんは言った。


「プレミアだわね」




 夕方、地上に出ると雨は止んでいた。空腹を覚えた詩織は食事処を探した。

「決めてないのなら、味噌煮込みうどんを食べてもらいたいです」

「なんで?」

「私の時代には無かったので」

 食べたくても食べることのできない姫にとって目の毒なのではないだろうかと詩織は気を回したが「詩織が食べるところを見られれば満足です」と姫は笑った。

 要望に応えて、うどん店の暖簾をくぐる。


「名古屋の思い出が、モーニングとパチンコだけにならなくて良かったわ」

「うまくいって良かったですねえ」

「ありがとう、気を使ってくれて。旅行後のことも考えてくれてたんでしょ?」

 姫は何も言わず踊りで答える。詩織は吹き出した。

「ていうか、あんな格好になるなら前もって言っておきなさいよ。笑いすぎて窒息するところだったわ」

「あの台があんな感じだったからですよ。例えば劇画調の台ならまた違って見えるでしょうし」

 詩織は一瞬想像し、すぐにやめた。そろそろ運ばれてくるであろう味噌煮込みうどんで絶対に火傷する。


 明日は岐阜、その次は目的地の京都。京都の観光を終えたら姫は消えると言っていた。この邪魔でしかなかった姫がいなくなったらどうなるのだろう。少しだけ寂しい思いをするのだろうかと詩織は考える。

 うどんが運ばれてきた。熱そうな麺を持ち上げると湯気が立ち込め、詩織の眼鏡が曇る。味は濃いが、その濃さが詩織の空腹を刺激した。熱いうどんを黙々と食べ続ける。湯気はなかなか収まらない。

 その湯気の向こうで、スマートフォンの中の姫が、頬杖をつきながら穏やかに微笑んでいた。

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