芦ノ湖にノコノコ出向いた詩織を狙った男の子

 強羅のホテルで食事を終え、部屋に戻った詩織は、ちゃぶ台に頭を乗せてうとうとしていた。散歩で疲れていたうえに入浴後の倦怠感と満腹感が加わり、今にも深い眠りに落ちそうだった。

「Heyヒメ、明日の朝5時半に起こして…」

「その呼び方はやめろってんです。だいたいそんな寝方だと風邪ひきますよ。向こうに布団敷いてもらってるじゃないですか」

 常陸姫のセリフを最後まで聞くことなく、詩織は眠りに落ちた。


 朝5時25分、ちゃぶ台の上のスマートフォンが鳴った。


「わんだばだばだば!わんだばだばだば!」


 姫は目覚まし音を勝手に変更しただけに飽き足らず、自分でも大声で歌っていた。詩織はスマホを手に取り、精一杯の礼を言った。

「うるさい。なんでそんな歌知ってんのよ。しかも5分も早いし…」

「起こせと言われたから起こしたのにその言いぐさ…。景気いいからこの曲探してかけたのに…」

「まあ悪い夢を終わらせてくれたから良かったわ」

「どんな夢でした?」

「坂上の野郎がバズーカー担いで走ってきた」

「やはり心は拒んでも体が欲してるんですね。フロイトも手を叩いて高笑いしていることでしょう」

 詩織は無視して風呂へ出かける。誰もいない大浴場の快適さは早起きの苦痛に勝るのだ。


 簡単な朝食を済ませ、ロビーに設置されたパソコンの前に詩織は座った。幸い周囲に人は少ない。詩織はパソコンに向けてスマートフォンを差し向ける。

「はいハウス」

「犬じゃねんです」

 言いながらパソコンに十二単の常陸姫が映る。

「何調べますか」

「アンタが行った足柄山の麓って遠いのかなって」

 詩織は何も操作せず画面だけを確認する。地図が開かれ、距離や標高など、知りたい情報を即座に入手できたが、歩いていくには無理がある距離だった。


 ふと詩織は前から感じていた疑問を口にする。

「アンタさ」

「はい?」

「眠らないの?」

「眠りたいし食べたいですけど、できないので考えないようにしています。なんといっても霊魂ですよ霊魂。なんなら毎日アラームの15分前に起こしてあげますよ」

 表情とは裏腹に、姫の声に明るさは感じられなかった。詩織はその生活を想像しようとしたが、すぐに諦めた。


「足柄山に行きます?」

「いや、できれば行きたくない。ケーブルカーとロープウェイで芦ノ湖行ってから小田原まで戻って、静岡目指すってのはどう? アンタの通った道筋からはズレるけど」

「是非も無しです。もともと体力と根性のない詩織が足柄山まで行くなんて想像もしてなかったですし。けど一応同意を求めたりする薄っぺらな優しさ、私は好きですよ」

 そりゃどうもと言いながら詩織は立ち上がって、パソコンにスマホを差し向ける。

「はいハウス」

「だから犬じゃねんです」

 毎度のやり取りを踏まえ、姫はスマホに移る。今日こそはいい一日になるだろうと詩織は歩き出した。


 芦ノ湖を巡る周遊船は観光客で一杯だった。早めに窓側の席を確保したから良かったものの、もう少し遅れていたら1時間立ちっぱなしの遊覧になるところだった。出港してすぐに、詩織はビールを開けた。風景をつまみにし窓枠に肘を乗せる。


「だいたい、平日の昼間だっていうのに、どこからこんなに湧いてくるのよ。みんな仕事してんの?」

 イヤホンマイクに向かって小声でつぶやく。

「そのセリフは、全て丸ごと詩織に返ってきてますが、大丈夫ですか、あたま」


 周囲の人たちが色んな目的で動いているからこそ世の中は回っているなどという正論では、曲がりくねった詩織の世界観を揺るがすことはできなかった。そして詩織の腹立たしさの大元といえば「平日なのに混んでるからなんか腹立つ」という、小学生やヤクザですら思ってても口にしないような幼稚なものなのだ。


「なんかいい感じの音楽聴きながら景色楽しみたいわ。窓の外に没頭したい」

「ではなんかいい感じの音楽かけますね」

 わんだばだばだば!と姫の歌声が聴こえてきた。詩織はイヤホンを耳から外し、窓の外に目をやった。2月の空気は澄んでおり、遠くまで綺麗に見える。しばらく景色を楽しんでいたが、朝が早かったので次第に眠気が襲ってくる。うつらうつら、船の中で船を漕ぎ出した時、


「ちょっとすみません」


 と声をかけられた。恰幅の良い白人の男だった。詩織は無言で男を見た。無言が数秒続いたが、この行動は悪気のみからくるものではなかった。確かに寝しなに起こされたことと、更にそれが男だったことには苛立ちを覚えたのだが、何より、日本語で話しかけられたにも関わらず英語で返さなければならないと思いこんでしまい、その焦りから何の言葉も出なくなっていただけだった。

「すみません、ちょっとよいでしょうか。お話させていただいても」

 と男は続けた。

「構いませんが」

 結局詩織は日本語で応じた。

「これ知ってますよね。私の忍者が貴女とそちらの女性に挨拶したいそうです」

 男は自分のスマートフォンを詩織に見せた。


 その画面の中には、ニンジャがいた。どこからどうみても忍ぶつもりのない忍びの格好をした青年が、指を結びながら言った。

「拙者、風魔一族が長、風魔小太郎でござる」

「そんなの全く知りません」

 と詩織は言ったが、姫が声を上げた。

「小太郎様じゃないですか。お変わりないですか?」

「やはり姫でござったか。どこかで会った気配がしたなと思ったもので」

「で、なんですか、その取って付けたござる口調は」

「この方がニンジャっぽいので、そうしました。今の主の強い希望もありましたゆえ」

 ホホホ、ヌハハと笑い合い、時たま真面目な顔で話し合っていた。そうした応酬に慣れてきた詩織は、白人の男に話しかける。

「あの、こういう遭遇…あーエンカウントはメニイタイム」

「あ、こう見えて日本語しか話せませんので」

 男は笑いながら応えた。込み入った事情を訊くこともないだろうと思っていたが、男は話を続ける。

「野呂晋也といいます。父が日本人、母がアメリカ人の男の子です。兄が一人、妹が二人います。晋也と呼んでください」

「はあそうですか」

 どう見ても40代以上の中年が自分のことを男の子と呼ぶ神経が、冗談だとしても詩織には分からなかった。とりあえず名乗り、和気あいあいとした雰囲気のスマホ2台を指さしながら話を戻した。


「こういう遭遇って良くあるんですか? この間会った人とうちのとはすごい仲が悪かったんですけど」

「うちの小太郎は誰と会っても喜んでますね。この間は松尾芭蕉と出会って俳句のダメ出しをされていましたが、それでも喜んでいました。というか、忍者の特性なのかは知りませんが、今日も小田原の実家にいる時『芦ノ湖に誰かいる気配がするでござる』って言ってましから、こういう出会いが好きなんでしょうね。連れて行ってやることにしてます」


 そういえば常陸姫は、兼好法師を連れた鈴木が後ろを通った時にやっと「なにかあの人が」と言い出すほどのにぶちんだったので、そこは個人差なのだろう。それにしても伝説の忍者が今となってはうちの小太郎呼ばわり。柴犬と同じような扱いになっていることに対し、詩織はほんの少しだけ同情した。


「うちの小太郎は忍者のイメージと違って陽気でしょう。陽気と言えば明智光秀は躁病かと思うほどに陽気でしたね。事あるごとに『火を放て火を』と笑いながら叫んでいました。小太郎は酔っ払ってるのかと思うほどに陽気なんですが、服部半蔵や飛び加藤と会った時は小声でヒソヒソと話していましたよ」


「実に忍者っぽいですね」


 出会って十分も経っていないが、詩織は直感していた。話が回りくどく押しの強い野呂は、あまり得意なタイプではなかった。風魔小太郎に話を聴きたかったので野呂のスマホに目をやる。

 スマホの中の風魔小太郎は、あぐらをかいて食事の模倣をしていた。それを見た常陸姫が身を二つに折って笑っている。


「し、詩織、見てください! う、氏政様にそっくり!

 ご飯に、に、二回も汁を! あ、またかけた! さ、三回もかけましたよ!

 詩織見て見て!」


 笑いすぎて息も絶え絶えな姫の勧誘を「そうね、そっくりね」と軽く流した時、間もなく港に到着するアナウンスが流れた。今度は源頼朝の落馬の瞬間を真似しだした小太郎には大した話は聞けそうもない。


「詩織さん、これからどこ行くんですか? 良かったら小田原来ますか? 食事でもどうです、車も出せますよ実家のシボレー」

 野呂にいきなり名前呼びされたことに軽い苛立ちを感じながら詩織は

「静岡へ行きます」

 と答えた。野呂の笑みが深くなる。

「とすると、どのみち小田原へ戻るんですね?」

「静岡へ行きますので」

「じゃあ案内しますよ。地元なので」

「詩織、ついて行かない方がいいですよ」

 笑いすぎて滲んだ目を拭いながら常陸姫が言った。

「小太郎様も言ってましたけど、その人、ダメです。女性は危険です」

 怒りで赤面した野呂はスマホに小声で話しかける。

「小太郎、お前何を言った」

「語るのも無粋でござる」

 風魔小太郎はひどいひどいモノマネを始めた。酒を飲み交わして女性を泥酔させて連行するという一連の流れが巧みに再現されていた。

「小太郎さん、ありがとう」

「まあ、毎回拙者が中断させておりますがね。警察につなげますぞの一言で、主はたいていシュンとなります」

 詩織は伝説の忍者に感謝を告げ、野呂を無視して立ち上がる。

「詩織、大丈夫です。あの人が近づいてきたら小太郎様が私に知らせてくれます」

「始めてアンタを飼ってて良かったと思うわ」

「だから犬じゃねんです」

 詩織は振り返らずに船を降りた。芦ノ湖から小田原までのルートは長く感じたが、危険は生じなかった。どのみち近寄ってきたら下腹部を容赦なく蹴り上げてやるつもりではあった。


 小田原駅からのこだまに乗り、静岡へ向かう。小田原から早く出たかったので、食事は駅弁にした。徐々にのどかな風景へと変わりゆく車窓を眺めながら、詩織は独り言をこぼした。

「それにしても、ヒドイ目に遭うところだった」

「小太郎様がいれば、あの人、何回チャレンジしても悪いことできないってわかってると思うんですけどねぇ。バカですねぇ」


 常陸姫は小太郎が演じた北条氏政ほうじょううじまさのモノマネをしながら答えた。食事の際、氏政が飯に汁を二度かけたところ、父の氏康が「毎日食事をしておいて汁の量も決められないとか」と呆れ返ったという逸話を元にしたものだ。


「なんで何度も同じ間違いをするのかしら」

「氏政さんのことですか?」

「誰よそれ。さっきのおっさんのことよ」

 多分血筋じゃないですか、と常陸姫は考える。口に出しはしなかった。


「それにしても、久しぶりに会った小太郎様は相変わらず面白い人でした」

「昔からあんなファンクニンジャだったの?」

 ファンクニンジャという言葉に吹き出しながら姫は答えた。

「いえ、亡くなってからです。生きてる間に悪いことコンプリートしてますし、北条家に仕えている間は絶対服従でしたよ。今と真逆ですよ、まぎゃく」

 詩織はわさび漬けをつつき、窓の外を見てため息をついた。

「そういえば小太郎さん、女性に危害が加わる前に通報したって言ってたじゃない。ということは、あの野呂っていうおっさんにとって、小太郎さんは邪魔だったわけでしょう」

「まあ、悪く言えば、毎回食事の邪魔をされるようなものですから」

「ならなんで、あのおっさんは、スマホを遠ざけておかなかったんだろう」

 常陸姫は落馬のモノマネをしながら答える。

「多分ですけど、スマホが手元にない生活って考えもしなかったんじゃないですかね」

「そういうものかねぇ」

「そういうものですよ。多分詩織だって」

 詩織は何も答えなかった。新幹線は日の沈む方へ進んでいく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る