橋の上でのお説教

「えっ!? アンタ消えるの!? 死んでくれるってこと!?」


 車の行き交う朝の新富士川橋の上で、菅原詩織はスマートフォンに接続されたイヤフォンマイクに向かって叫んだ。


「うわ、その嬉しそうな顔。というか私は千年前に死んでますし」

 スマートフォンの中の常陸姫は白い目を隠そうともしなかった。


「先祖がもう一度亡くなるのに喜ぶ人がいますか」

「申し訳ございませんでした」

「肉親や友人に向かって同じことが言えるんですか」

「言えません。すみませんでした」


 詩織の言葉は最後には消え入りそうなほど小さくなった。

 もしかして叱り過ぎたかと常陸姫が詩織の表情を伺う。肩を小刻みに震わせ、笑いすぎて喋れなくなっている子孫の手の平の中で、姫は扇子を床に叩きつけた。



 前日。

 小田原から新富士駅まで移動し、駅近くのビジネスホテルに宿泊。体以上に疲れた精神を休めるため、詩織は19時にはベッドに横たわりながらコップの日本酒を飲んでいた。


 富士川へ着いたはいいが、残りの旅程が定まらない。筆者を伴った更級日記をめぐる旅行は基本的に千葉から京都への道筋になるのだが、特に京都へ近づくに連れ、勉強不足の詩織にとっては地名がわからなくなる。不明点はその都度筆者に尋ねれば良いのだが、最近気を抜いているのか、更に詩織をなめてかかっているのか、

「ちょっと思い出せません」

 という返答が増えてきた。千年前のことを思い出せと言う方が悪いか、と少し申し訳なく思い黙っていると

「私が詩織をナメナメにナメてナメてベロンベロンにナメまくってるのは確かなことですが、この賢い私がどうにも思い出せないんです」

 とのたまった。

 そうか、そこまでなめられていたのかと苦笑いしながら詩織は日本酒を口に含む。もはやそんな程度の悪口では気分を害さない。

「で、次の沼尻ってとこなんだけど」

 と詩織が訊いた時、スマートフォンが正常な役割を果たした。着電したのである。画面には


「坂上(ネズミ)」


 と表示されていた。


「出ますか」

 と姫が問う。

「逃げる道理はない。ネズミ野郎の山芋へし折ってくれる」

「ほんっとに品がないなぁ…」

 ほろ酔いで気が大きくなっていることを多少自覚しつつ詩織は電話に出た。


「菅原さん、この間のことを謝らせてください」

 思わず詩織は液晶画面を見る。姫は後ろ向きで体育座りをし、両耳を塞いでいる。聴いてませんよアピールだろう。

 坂上は話を続けた。

 曰く、騙されていた。

 曰く、目が覚めた。

 曰く、本当の自分を見てほしい。

 詩織は深い溜め息をついた。愛したわけではないが、気になった男からそこまで言われれば悪い気はしない。旅行から帰ったら会う約束をし、電話を切った。姫が正面に向き直る。


「詩織のちょろさにはご先祖の私もたまらず赤面。いくらなんでもちょろい、ちょろすぎる。この国の過去を知る私が認めるほどの歴史的なちょろさです」


 やはり聴いてませんよアピールに過ぎなかった。詩織は姫の説教を聞き流して眠りについた。



 菅原詩織、富士川を見下ろす、朝方の新富士川橋に、立つ。

「あのタクシーの運転手さん、なんかすごい怪訝な表情してたわね」

「それはそうでしょう。2月の平日に女一人を何もない橋の上に降ろすなんて、自殺幇助みたいな気持ちになるってものですよ。せっかくだから、期待に応えてみたらどうですか」


 言われてみれば不審がられるのも無理はない。詩織は国道1号線の橋から富士川を見下ろした。はるか南アルプスから静岡を縦断し、駿河湾へと流れ込む川の流れは、想像以上の冷たさなのだろう。とてもではないが飛び込もうという勇気は湧かなかった。そもそも飛び込む理由が全く無いのだが。


 詩織はコートのポケットから文庫本を取り出し、ページをめくった。

「アンタの日記に書いてある『川上の方より黄なる物流れ来て』って、ここらへんのことなの? ていうか黄色いのって何? 説明不足じゃないの? 本当にこれ言葉足りてんの?」

 更級日記の著者、常陸姫こと菅原孝標女は目を見張った。

「さすがです、詩織」

 詩織も目を見張った。平安時代きっての才女が、まさか素直に不備を認めるとは思ってもいなかったのだ。

「すごいですよ。自分の知識と読解力とがないのを棚に上げきって、人の欠点と感じたところを容赦なくえぐったつもりでいる浅はかさが。これには失笑を禁じ得ない」

 常陸姫は直垂で顔を覆う。

「もう少し読めば分かると思うんですけど、公文書に使っていた紙のことです。本当は白っぽいんですけど、古くなって黄ばんでいたんです。

 あ、『本当は』で思い出した。詩織、『本当の自分』ってなんですか?」

 昨晩の坂上との話で出てきた言葉が引っかかったのだろう。姫は真正面から詩織を見つめながら言った。



「それはほら、誰だって周りに全部を見せているわけじゃないから」

「それは当たり前です。ただ、本当の僕とか本当の私とかっていうわけのわからない言い方が、私には理解できないんです」

 常陸姫は真剣な面持ちで言った。

「詩織は『本当の自分』とやらを見せてないんですか?」

「そりゃそうでしょう」

「私にも?」

 詩織は言葉に詰まりながら反論する。

「けどアンタだって、帝に会えたとしたらそんな態度じゃいられないでしょう」

「そんなの当然です。だって下手すれば一族全員コレですよ」

 姫は右手の手刀を首に当てた。

「昔とは時代が違うのよ、時代が。今は誰だって自分を隠して生きてるのよ」


 姫はしばし押し黙り、口を開く。

「いえ、時代のせいではないと思います。だって、仮にですよ、もし私やご友人が詩織に向かって『あなたと向き合っているけど本当の私は別にいるのよ』って言ったらどう思います?」

「ムカつきます。そんなこと言われたら」

「でしょう。何に対してかはさておき。言う人はいないでしょうけど、そんなこと」

 姫は断言した。

「ああもう、わかったわよ。悪かったわよ。そんなに怒んないでよ」

「別に悪いとは言ってません。知りたいだけです。ですが、そんな軽薄で安直なだまし文句にほだされている詩織にはちょっとだけ怒ってはいます。話を続けても良いですか」

「良くないです」

「今まで、小太郎様とゴキブリ法師に会ったじゃないですか」


 ―無視。


「私達には共通点があるのですが、それは何かわかりますか?」

 詩織は風魔小太郎と兼好法師の言動をじっくりと思い返し、感づいた。

「わかった。みんな発狂し」

「そうです。生前のイメージとの大きな差異です」


 ―遮断。


「小太郎様は職務に忠実で冷徹な忍者の頭領。カメムシくらい臭いジジイは清貧の賢者扱いされています。そして私はおしとやかで夢見がち、源氏物語に没頭した薄幸の美少女」

「あ、はい。あの、兼好法師さんとの間になにがあ」

「けれど、どちらも全力で本物の私です」


 姫はもう一度同じことをした。


「彼らももし問われたら、同じことを言うでしょう。全力で生きたらああいう形になったんです。けど生前のイメージと違っているのは、心の何処かで芽生えた意識が拡大したのかもしれませんね。

 任務に忠実で、人を殺めることも厭わなかった忍者は、心の何処かで人を思い切り笑わせたいと思っていたのかもしれません。私の場合、本も好きでしたけど、もともとこんな感じでした」


 自分の胸を手でポンと叩き常陸姫は話を続ける。


「後世の人が『美少女は薄幸であるべし』と思ってか、なんか悲運の人扱いしてますけど、夫に先立たれるなんて珍しいことでもありませんでしたし。けど、いつの時も『本当の私はこんなじゃない』なんて思いませんでしたよ」


 姫は語気を強くした。


「詩織がどの時代に生まれても、詩織と会ったら私は全力全開でぶつかります。

 京都で私は消えますが、それまで全力でぶつかり続けます。悪い男ばかりが寄ってくる、ダメ男ホイホイみたいなかわいい子孫に全力で向き合います。

 もう一度訊きますが、詩織が本当の自分とやらを私に隠しているとしたら、見せてください。見せられないのなら、ないんですよ、そんな都合の良い仮面は。あんまりふざけたこと言ってると、本当に貝柱叩き割りますよ」

 言い終わり姫は長い溜息をついた。



 少し頬を紅潮させた詩織が話しだす。

「うん、私はアンタに何も隠してない。私の本当の自分なんてない。私は全力でアンタに向いてる。私は貝柱叩き割る」

「オウムじゃないんだから、少しは自分の言葉で話したらどうです」

「そんだけ言われたら、言葉が出てこないのよ…。ところであの、ヒメ様」

 詩織は恐る恐る訊いた。

「はい」

「さっき、京都着いたら消えるって」

「消えます。言い方は難しいですが、成仏みたいなものです。京都観光したら、あと思い残すことは詩織のカップリングだけなので。

 ていうか、最近、無事に消えてく感じではあります。だから記憶が薄くなってきているんじゃないかな」

「えっ!? アンタ消えるの!? 死んでくれるってこと!?」

 車の行き交う朝の新富士川橋の上で、詩織は満面の笑みを浮かべ声高らかに叫んだ。

「うわ、その嬉しそうな顔。というか私は千年前に死んでますし」

 スマートフォンの中の常陸姫は白い目を隠そうともしなかった。


 床に叩きつけた扇子をふきふき、姫は話す。

「最初、意識を取り戻した時は、喜びました。けど、眠れないのも食事ができないのも、正直きつい。別に眠くなるわけでもお腹が空くわけでもないんですけどね」

「ていうことは、成仏したいから京都へ行きたかったってこと?」

「はい」

 詩織の口調が変わる。

「だから他のとこに寄るな、京都京都って言ってたの?」

「ま、まあ、そうなりますね」

 血走る目。大きくなる声。

「アンタさっき全力でどうこう言ってたけど!」

「だって、あちこち寄ったらお金もかかるし」

「要は隠してたってことね」

「だってだってだって! 『死ぬから京都連れてって』なんて言われたら夢見最悪でしょ」

「ていうか、連れてって知らぬ間に成仏されたら、私の役目はそれこそ自殺のお手伝いじゃないの?」

「い、いいんですよ、死んでるんだから」


 口では勝てない。詩織は追求を諦めた。

「まあいいわ。ただ、黙って成仏するのは絶対にやめなさいよ。そんなことしたら許さないからね」

「自分が死ぬ瞬間を把握せよとおっしゃってるんですか」

 何も言わず眉間にシワを寄せ、姫を睨む。イヤフォンから「すみません」という小さな声が聴こえた。

 詩織は低く曇った西の空を見た。冬の雨が近づいてきているようだ。新富士駅へ急いで戻り、愛知へ向かうことにした。

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