ジジイババアと罵り合うやりとりに詩織はバトルを決意した

 快晴の湘南海岸、おだやかな昼下がり。きらめく波と漂うサーファー、飼い主を置いて走っていく散歩中のラブラドールレトリバー。海沿いの高校から聞こえるブラスバンドのトランペット。そして眼の前には静かに怒りをたたえた老人。


 菅原詩織は汗だくのまま眼球だけを動かしながら、この場をしのげる言葉をひたすら考えていた。手の平の中の姫は手ぬぐいを噛み締め、悔しさを全身で表現していた。


 2時間ほど前、湘南新宿ラインに揺られて茅ヶ崎に到着。南口を降り、詩織は細い一本道を歩いて海へと進んだ。それなりのスピードで進む自転車と車がスリリングに交差しつつも大事に至らないのは、地元の人にとっては日常だからだろうか。少なからずおっかなびっくり歩きつつ、相模湾を囲む国道134号線へとたどり着いた。


「そんなに遠いわけじゃないけど、渋谷と比べたら開放感が段違いね。始めからこっちに来てれば良かった」


 砂浜を望む歩道橋の上で、詩織は水平線を見つめながら言った。冷たい潮風が今は心地よい。


「海はいいですねえ。砂浜や地形は変われど、昔から変わらないのは海だけです」


 スマートフォンの中で常陸姫がのんびりとした感想を口にした。詩織は文庫本の更級日記を開く。1000年ほど前、常陸姫こと菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめはこの海岸に訪れ、砂浜を2、3日かけて進んだとある。東海道を進まず、わざわざ歩きにくい砂浜を選んだ理由は、

「だって海を見ていた方が気分良いじゃないですか」

 だそうだ。当時の従者の苦労を想像し、詩織は眉間に人差し指を当て、眼鏡を少しだけ上げた。イヤホンマイクから軽やかな声が響く。

「ボードウォークもあるし、砂浜を西に向かって歩いてみたらどうでしょう?」

「そうしましょうかね」

 詩織は歩道橋を降り、砂浜のボードウォークをスニーカーで踏みしめた。朝の渋谷はともかくとして、良い日になりそうな気がした。


 波打ち際まで進み、潮の匂いを全身に浴びる。

「平日の昼間に海っていいわ。無職になった甲斐があるってもんよ」

「詩織の虚しい強がりが波間に響いた。心とは裏腹に体は坂上のような男を欲していた」

「見当違いの解説すんな、万年発情期のマセガキが」

「もうちょっと西にいった大磯に、昔『もろこしが原』という名所がありまして」

 詩織の罵声を丸々無視して常陸姫は続ける。

「そこは夏になると大和撫子が咲き誇る風雅な野原だったと言われています。面白いですよね」

 くすくすと姫は笑った。

「何が?」

「はい?」

「何が面白いのかわからないんだけど」

「あらあら。もろこしって唐、昔の中国のことです。そこに撫子が咲くという洒落を解説させるとは…」

「はいはい、あなやあなや。いとおかしいとおかし」

「詩織はもう少し教養を身に着けないと孤独死しますよ。カピカピのミイラもどきで発見されたくないでしょう。あと口の悪さを治せば…あら?」

 スマートフォンの中の姫が真横を向いた。そのまま辺りを見渡す。


「あの人、なんか…」


 時間を測るためだろうか、左上腕にスマートフォンをくくりつけ、背筋を伸ばしたキレイな姿勢でウォーキングしている老紳士がボードウォークの海側を通り過ぎる。別におかしいところはないが、万が一を考え詩織は姫に尋ねた。

「え、もしかして危ないの? 倒れそうとかそういう感じ?」

「あの人がどうというわけでなく、そうといえなくもないというか…」

 珍しく歯切れの悪い返答をした姫だが、すぐに手を打って切り替える。

「ちょっとあの人を追ってください」

「だからなんでよ。怪しすぎるでしょう」

「もしかしたら人命に関わるかもしれませんです」

「…なら仕方ないか。眼の前で倒れられてほっとくわけにもいかないし」

 せめて海岸にいる間は、と詩織は早足で歩き出した。

「所詮相手はおじいさん。フレッシュでナウい詩織なら苦もなくつけられますよ。はいレッツゴーヤング」

 頼み事をしておいてこの言い様。詩織は改めて、1000年前の姫の従者に同情を寄せた。


 約1時間、早足で歩き続けた詩織の体力は底をつきかけていた。事務職特有の慢性的な運動不足が続いたせいもあるが、ボードウォークが途切れ途切れになり砂浜が露出している部分、これが効率よく疲労を生む。散歩のコースとしては良い出来なのだろうが、今は設計者の思いやりが恨めしい。


 かたや老人はペースを落とすことなく歩き続けていた。間もなく平塚に差し掛かろうというあたりで、詩織は足を止めて天を仰ぎ、晴れやかな表情で言った。


「うん、むり!」


 久々に良い汗をかき、心地よい疲労感に包まれていた。来週からウォーキングを始めようと思うほどに。

「目的を見失ったくせに充足してんじゃねえですよ! このへちま!」

 常陸姫がわめきたてる。詩織は手の甲で額の汗をぬぐい、

「まあそう喚きなさんな」

 と言った。汗が付きそうだったのでイヤホンマイクをジャックから外し、音声をスピーカーに切り替えた。

「あんな元気なじいさん、ちょっとやそっとで倒れることはないわよ。アンタの見当違いもいいとこね」

「いいからスタンダップ、詩織。ゴーですゴー」

「犬扱いすんな」

「あのジジイのスマホから、なんか嫌な気配がするんです」

「ちょっと待て、私に『ジジイ、初対面の旅行者にスマホ見せてくれませんか』って言わせるつもりか」

「さっきからジジイジジイって、それはわしのことか」

 気づけばすぐ横に、老人が立っていた。甲高い声で連呼していたジジイという言葉が耳に入ったのだろう。息を切らす事なく老人は詩織を睨みつけていた。


 完全に不意を突かれた詩織は「本当に自分のことをわしって言う人いるんだ」とこの上なくどうでもいいことを考えた。思考が停止しているとも言う。左手に握ったスマホから声が響く。


「詩織、このジジイ、自分のことをわしって言ってますよ。初めて聞きました」


 頼むから黙ってろ。強く思う。まずは謝らないと。謝罪の機会を伺わないと。詩織は口ごもりながら目玉だけを動かす。その時、老人の左腕に取り付けられたスマートフォンから声がした。


「ご主人、ご主人を先程から罵ってるのはその女人ではなく、彼女の握ってるスマホの中のオタクババアですぞ」


 老人は大きく目を見張り、詩織のスマホに目を落とした。きいいという金切り声が左手から響く。常陸姫は手ぬぐいを噛み締めながら叫んだ。

「やっぱりあの乞食ハゲがうろちょろしてやがりましたか。潮の香りよりハゲの口臭の方がくせえんですよ。恵んでやるから虫けらみたいに腹見せてあと3回くらい死ぬといいです」

 老人のスマホの中にいる坊主は常陸姫を指さして笑う。

「あの他人を罵る時の醜い顔。さすが物語の主人公に恋する乙女ですな。ご主人、あれが相手が何かを思っているなど考えたことのない、生まれついての犯罪者気質を誇る菅原孝標女ですぞ」


 罵詈雑言の嵐にもっていかれた形の詩織は、間の抜けた声で老人に尋ねた。

「な、なんか戦ったりするんですか。私とあなたで」

「いや、それはない」

 老人は苦笑で答える。

「そうか、彼女が菅原孝標女か。こいつは卜部うらべ兼好かねよしという」

「え、だ、誰ですか」

「ハゲのヒマ人ですよ。徒然草つれづれぐさっていう偉そうな冷笑主義で書いたものを、偶然ありがたがられて勘違いしている」

 悪意しか無い解説はもちろん姫だ。

「姫様がお書きになられた恋愛脳ダダ漏れマイナー日記には及びません。だが法師界においては兼好けんこう法師ほうしの名に勝る法師なし」

 兼好法師は頭をつるりと撫でながら尊大無礼な言葉を吐いた。

「ていうか」

 詩織は言葉を探した。

「ていうか、こ、こういうの流行ってるんですか?」

「ポケマン扱いするんじゃねんです」

ポケマンとは人気ゲーム「ポケットマンカインド」の略称である。ゲーム機に入ったマンカインドと呼ばれるキャラクターを戦わせるそうだが、詩織は特に造詣が深いわけではなかった。

 姫のクレームを笑顔で聞き流し、老人は詩織の横に座った。


「ここじゃなんだし、わしの店に来るかい」

「何屋さんですか」

「居酒屋」

 詩織は強烈な喉の渇きを思い出した。

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