渋谷のど真ん中で詩織は語彙を失い汚い言葉を連呼した
クラクションを鳴らしながら、西行きのバスが眼の前を通る。乗客を降ろしたタクシーが20メートルも進まないうちに別の誰かを乗せて走り出す。日本人のみならず、黒人、白人がひっきりなしに行き来する。センター街の間から見える曇り空が狭い。東京には空が無いと嘆いていた人の気持も今ならわかる。
菅原詩織は渋谷のスクランブル交差点を前にして、ただただ立ちすくんでいた。イヤホンマイクでスマートフォンの中の常陸姫に話しかける。
「久々に来たけど、やっぱり渋谷って苦手だわ。圧倒的に。精子と卵子がうようよしてるようにしか見えない」
「自分で行くって言っておいて、その言い草。子孫がそこまで肥大した被害者意識を持つようになると、先祖としては悲しくなりますね」
直垂姿の姫は少し疲れが見える表情ながらも毒舌で応えた。
血の繋がりがあるのかないのかは分からないが、常陸姫こと菅原孝標女は詩織を子孫と認識していた。スマートフォンの中で退屈そうにしている姫と、無職になった菅原詩織の更級日記をめぐる道中は、一日目の午前中で早くも暗礁に乗り上げている。
詩織の当初の計画としては、静かな喫茶店で更級日記を開きながら「なんで急に姫様と火の番人の恋の話に夢中になっちゃったの?」「武蔵国がいかに殺風景だったとしても、アンタの脳みそには恋しか入ってないの?」などとグッチグチ詰めるつもりだったのだが、この街に静かな喫茶店などないであろうということを思い出した。探せばあるのかもしれないが、探す気にはなれなかった。常陸姫は期待を込めた目で
「漫画喫茶はいっぱいありそうですよ」
と勧めた。
「どうせアンタが漫画見たいだけでしょ」
「ですです。見たいの一杯あります。けど無職の詩織にたかるわけにはいかないので、漫画喫茶で妥協しようかと。詩織は休める、私は漫画を見ることができる、これ以上合理的な時間の使い方は他にあるでしょうか、いや、ない」
更級日記を読んだことにより、常陸姫が活字中毒であることは分かっていた。光源氏に恋をし、浮舟の出身地の常陸にあやかった自称をつけてしまうほどの想像力を誇る才女は、活字と同等以上に漫画が好きなようだった。
詩織はスマートフォンを顔の高さに掲げ、満面の笑みで姫に伝える。
「却下」
姫は舌打ちで了承した。
「じゃあどうすんです。この街で一泊するんですか」
「ここらへん、ラブホしかないんじゃないの」
「女一人でラブホテル。平安時代から続く名門菅原家もここまでですかねえ」
無視して詩織は会話を進める。
「アンタの足取りでいうと、次が湘南。ということは藤沢、茅ヶ崎、平塚、大磯あたりか。そこまで行けば何かしらあるでしょう」
「ありますかね、海岸以外に。というかとっとと渋谷から逃げたいだけですね」
「だって何も見るものないじゃない」
「昔もあんまり見るものなかったんですけどね。荻とかニョキニョキ生えてて進むのに大変でした…従者のみなさんが」
姫は左手でうちわを扇いでいた。詩織はそれを苦々しい目で見やる。
「それにしても、若い人ばっかりですね。国木田独歩の書いた美しい武蔵野って、もっと西の方なんでしょうか」
「国木田さんが誰かは知らないけど。ここはガキの街よ」
「ババアにはキツイと。更年期待ったなし」
20代後半でまだ全然若いと思っていたが、主に年齢からくる排他的な視野の狭さを客観的に指摘され、詩織は
「このクソ、クソガキ出てこいクソ」
とスマートフォンに怒鳴り散らした。周囲の人間が詩織を横目で見る。
「恥ずかしいなあ、もう」
「この、おま、クソほんと」
「けど、他人に興味のない人たちのおかげで、必要以上に目立たずに済んで良かったですね。もしかしたら動画撮られてツイッターにアップされたかもしれませんが」
「てめ、クソ、まじで」
怒りで語彙が干からびた。スマホの中のクソがクソアプリを使ってクソ先祖のクソ日記をクソ読んだクソがこのクソ。詩織は駅へ向かいながら話しかける。
「この手のクソのクソアプリのクソ会話機能、クソ文字入力にクソ切り替えられないかしら」
「品がないなあ」
「今喋ってる、手の中のクソのせいで。私何やってんだ」
詩織は階段を駆け上がり、ちょうど入線してきた、空席だらけの湘南新宿ラインに乗り込んだ。どうせ京都から戻ってきたらこの口の悪い少女には消えてもらうのだ。その時の命乞いを聴くまではまあ、我慢しよう。
電車が動き始めた。四人がけのシートに座り、ビールを飲む。
「働かずに午前中から飲むお酒は美味しいですか」
姫の問いに詩織は返した。
「この上なく美味いわ」
南の空に立ち込めていた暗雲が割れ、大地に光を落とす。詩織は車窓からその幻想的な景色を眺めながら、本当に京都へ常陸姫を連れて行ってやる必要があるのだろうかと考えていた。
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