無職が旅に出る理由

 図書館からマンションまでの帰り道で、詩織はこれからのことを考えた。一瞬あの憎い坂上が脳裏をよぎったが、より大きな問題がある。辞表は提出したので、来月から無職になるのだ。あと10日あまりの有給消化の間に、次の仕事を見つけないとならない。


 なんというめんどくさくて大きな壁だろう。昔、誰かが「生活といううすのろ」って歌っていたけど、本当にそう思うわ。ため息をついた詩織はスマホを取り出し、気は乗らなかったが菅原家アプリを立ち上げる。


「Heyヒメ、千葉県、事務職、9時5時、完全週休2日制、社会保険完備、昇給年1賞与年2、『アットホームな職場です』を除いて検索」


 常陸姫は、風船ガムを膨らましていた。仮にも姫とよばれた少女は見るからに不貞腐れた態度で言った。

「急に会話を打ち切ったと思えば、今度は仕事を探せとか」

 この姫は自分の世界に没頭し、その才能ゆえにちやほやされた。ゆえに自覚なく人間関係に難をもたらしてしまうタイプのお子ちゃまか。詩織は再びため息をついた。


「はいはい、すみません。仕事を探していただけませんか」

「なかったです」

「探してみてよ」

「本当に無かったんです。詩織が辞表を提出した日からめぼしいところはチェックしていましたけど、そんな世の中舐めきった女が希望する甘い条件を掲げているところは、ありませんでした。代わりにこんなのはどうでしょう」

 画面に映し出されたページにはこう書いてあった。


 女なら体で稼げ!

 月収50万以上も夢じゃない!


 詩織はスマホをカバンにしまった。家に帰ったらパソコンをクリーンインストールしておこう。なぜかは知らないが、この姫様は私を怒らせようとしているだけで、害しか生まない。


 詩織はシャワーを浴びたあと、ビールを片手にパソコンを開く。聴いているのかいないのかはともかくとして、一応の宣言をした。

「悪いけど消えてもらうから。いろいろあってイライラしてるのに、毎回ケンカ売られちゃかなわないわ」

 十二単の少女が映る。

「そうですね、私が悪かったです」

 常陸姫は素直に謝った。

 振り上げた拳の行き場を無くした格好となった詩織は、黙って少女の話を聴く。

「久しぶりに人と会話ができたので、楽しくてちょっとやりすぎました。反省してます」

「反省していても消すわよ」

「ごめんなさい。はい、お願いします。痛みとかないので」

 ぐ、と詩織は詰まる。演技だとしても消しづらい。数秒ためらったのち、詩織は折れた。


「まあ、今はいいわ」

「言ってくれると思ってました」


 常陸姫は満面の笑みで詩織に向き合い、言葉を続けた。

「多分、詩織に必要なのは、リフレッシュです。旅行だったり温泉だったり旅行だったり」

「今の時代に生きてる人間に必要なのは、リフレッシュよりリセットよ」

「いつの時代でも、リセットなんかできませんよ」

 人権意識など無い時代に死んだ人間の言葉の重みは違う。詩織は口を閉じた。

「あまりそういう言葉を使ってほしくないです。もしどうしても使いたかったら、包丁で自分のお腹を突きつつ『リセット!』と大声で叫ぶほどでないと」

 後半は無視しつつも詩織は自分の言葉の軽さを恥じた。

「だから、リフレッシュのために旅行に行きましょうよ。時間もまだまだあるんですし」

「…アンタ京都行きたいんでしょう」

「い、いや北海道とか沖縄とかでも」

「まああの日記読んだらわかるわ。今の京都を観光したいんでしょう」

「ま、まあそうですが」

 図星を突かれたのか、姫は視線を逸らした。


 詩織は考えた。京都へ行くのは構わないが、どうせならこの姫の旅を再現するのも面白そうだ。日記の場所を訪れるならともかく、平安時代の著者を連れまわすなど前代未聞。誰かに話したところで頭がおかしくなっただけだと思われることうけあい。鈍行での移動となるが、一週間あればなんとでもなるだろう。幸いなことに旅費くらいは貯めてある。


 詩織は図書館で書き写したノートを開き、菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめが日記で振り返った場所を調べた。

「まずは、武蔵国? これどこらへん?」

「今で言う東京、埼玉、川崎のあたりですが…。詩織、何考えてます? 京都行くんじゃないんですか?」

「行くわよ。どうせならアンタの日記の足跡を辿ろうかと思って。ご指摘どおりヒマだし」

「いや、やめましょうよ。京都だけ! 京都!」

 姫は顔を紅潮させパソコンのモニターを内側から叩きながら叫んだ。たとえ才女とはいえ、昔書いた日記を掘り起こされるのは抵抗があるのかもしれない。ならやめるわけにはいかない。

「行くわよ、明日の朝から」

 詩織はビールを飲み干した。旅支度の準備をしなければ。

「どこの駅へ行くかはヒメナビに任せるわ」

「ナビじゃねえんです」

「だんだん言葉遣いが雑になってきたわね。その方がいいと思う」

「うるさい。いびきかいてる間に、貝柱思い切り叩き割りますよ」

 想像以上の下品さに詩織は苦笑いを浮かべた。口が悪いのは菅原一族の因習なのかもしれない。


 翌朝はあいにくの曇りだったが、詩織は予定通り6時に起き、本日の行動予定を立てた。パソコンの中の姫は不承不承といった様子で

「じゃあ、まずはここから」

 と地図を開いて場所を示した。詩織は目をむいた。


「し、渋谷じゃんか!」

「だけど確かこの辺でした」

「旅行気分ゼロじゃん!」

「そりゃ私の頃は京都に一日で行けるわけなかったので、それくらいはあまり賢くない末裔にも想像ついてるかと思ったんですけど」

 やれやれといった風で常陸姫は首を振る。悪態にも慣れてきた詩織は出かける準備を済ませ、スマートフォンをパソコンにさし向けて言った。

「はい、ハウス」

「犬じゃねえんです」

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