図書館にて

 2月の平日の午前中、菅原詩織は図書館にいた。更級さらしな日記ってなんだっけ。そこからのスタートだった。

 寒い曇り空の下、駅の向こうにある図書館まで出かけるのは億劫だったが、休みの日でなければ、こんな時間のかかる調べ物はできない。

 インターネットで知ることのできる範囲は限られているので、まず更級日記の原文を読んでみた。

 残念ながら何一つ意味が分からなかった。

「Heyヒメ」

 詩織は小声でスマートフォンに呼びかける。スマートフォンの画面に作務衣のようなものを着た少女が現れる。

「その呼び方…」

 自称常陸ひたち姫、菅原孝標すがわらのたかすえの娘を名乗る少女はこちらを睨んでいた。迫力不足にもほどがある。


 数日前。

 パソコンに常陸姫が出現した夜。詩織は大いに混乱。当然のことながらネット掲示板で「パソコンの中に十二単の少女がいるんだが」と問うても、誰も取り合ってくれなかった。

「いるものは仕方ないじゃないですか」

 と常陸姫は真顔で話す。いるものはって。


「あ、あ…」

「なんですか?」

「あやしうこそものぐるほしけれ…」


 詩織は高校の時に古文の授業で習った、やたら覚えやすい単語を絞り出した。意味は覚えていなかったが、偶然会話はつながった。

「混乱するのも仕方ないとは思いますが、ずいぶんどうしようもないところから引用しますね。大丈夫、詩織の頭がアレしたわけではありません。とりあえずは話を聴いてもらえますか?」

 気づいたらパソコンの「中」にいたこと。この中に、他には誰もいないこと。平安時代から現代までの知識をじっくりと学ぶ時間があったこと。おそらく自分の子孫であろう詩織が、ダメな男に好かれる気質なので気をもんでいることなどを、常陸姫は一気にまくしたてた。


 詩織は頭を抱えた。


 いろんな診察科のある大きな病院に行って、パソコンに少女がいるんです!などと声高にわめきちらしたら、おそらく尿検査から始まり様々な脳波のデータをとられ、窓のない部屋に入院させられることだろう。

 これは現実だ。幻覚ではない。だとすれば、自分の部屋の、自分の所有物で起きている怪異に立ち向かわないわけにはいかない。できれば何も起こらず消えてほしい。詩織は言葉を絞り出した。


「いとおかし。いまそかり、ありをりはべり刀狩り」

「あ、普通の言葉でいいです」

「あんたなんなの。なに、いきもの? なんていうか、なに」

「ですから、わかりやすく言えば、あなたの先祖の霊とかそういうものですよ。ところで、私の子孫なら、もう少しボキャブラリーが豊富でもいいと思うんですが」


 ああ、霊っていたんだ。ふーん、いたんだ。緊張の糸が切れた音がした。詩織はノートパソコンの蓋をつかみ、言った。

「もし明日の朝になって、まだパソコンの中にいたら真面目に向き合うわ」

 蓋を閉め、布団に潜り込んだ。


 そして翌朝。

 詩織はパソコンを無視してスマートフォンで出勤前のニュースチェックを行う。見覚えのないアプリが入っていた。円形に並んだ丸の真ん中に太陽のようなマーク。あとから知ったことだが、それは梅鉢という菅原家の家紋だった。アプリの下部には名前が表示されていた。


【菅原家app】


 あの菅原道真公を輩出した一族がアプリになりましたよハハ、いとおかし。詩織は観念し、苦みばしった笑いのままアプリを開く。予想通り少女が現れたが、十二単ではなく、ひらひらした作務衣のような服を着ていた。

「これは直垂(ひたたれ)といって、男性用の服です。動きやすいので、スマホの時はこれにします」

 常陸姫はくるりと回った。

「そうね、それがいいわね」

 何がいいのかわからないまま、詩織は応じる。

「メモリの負担も減ると思いますし」

「そうね、そういうことね」

 詩織は取り乱さなくなってきている自分に気づいた。全てを受け入れているのか、静かに狂ってきているのかは自分でも分からなかったが、とりあえず時間ができたら、この手の平の中の姫の言う更級日記とやらを調べてみようと思い立った。

 鞄の中の退職届を確認し、詩織は職場へ向かった。



 そんなやりとりがあり、図書館で更級日記の原文と現代語訳を交互に読んでいた。詩織はスマートフォンに小声で話しかける。2月の平日、しかも午前中という状況なので周囲に利用客は見当たらない。


「Heyヒメ、あのさ、聴きたいことがいくつかあるんだけど」

「なんですか」

「この日記?はどこが面白いの?」

「面白くはないかな。知識や教養がない人にとっては。だから読まなくてもいいと思います」

 こやつ言いよる。詩織は質問を変える。

「今更だけど、なんで子供の姿なの?」

「ああ、これは」

 常陸姫は自分の体を確認し、少し間を置いて答えた。

「この方が警戒されないかと。現代の知識も仕入れた以上、うまくアジャストするのが才女の努めです」


 どこで知識を仕入れたかは訊かない方がいい気がした。それにしても、いちいちカチンとくる言い方をするのは、平安宮女としての振る舞いなのだろうか。さらに質問を続ける。

「これ最初に書いた時、市原市のここらへんに住んでたのよね?」

「そうです。父の赴任先でした。その日記は、ここから都へ向かうまでのところが一番良く出来てると自負してますよ」

「ならなんで常陸姫って名乗ってるの?」

浮舟うきふねの育った場所に与りました。…なんですかその顔は」

 源氏物語のヒロインを気取って自分をそう呼ばせたのか。確かに日記を読むに、少し病んでるのかと思わせるほど源氏物語にのめりこんでいたのはわかるが、そうか、自分で名乗っちゃったかあ…。

「13歳くらいなら、そういうことはあるから。理解はしてるつもりよ」

「そのむくつけき笑顔はさておき、詩織が坂上さんに会う前日に書いた日記に比べれば、それほど恥ずかしいことで」

 皆まで言わせずスマートフォンの電源を切った。夕方になるまで常陸姫の一生が詰まったような日記を読み続けた。

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