わけのわからないことを言い出した坂上は詩織に齧りつこうとした
土曜日。菅原詩織は20分早く待ち合わせ場所に着いた。男は獣という考えは鳴りを潜め、久々のデートに気合十分だった。化粧は普段どおりのナチュラルメイクにした。普段の詩織を気にしてくれるのなら、普段どおりにいた方がいいと思ったのだ。というか、何ガツガツしてるんですかと思われるのが嫌だった。
やがて待ち合わせ時間10分前に坂上が来た。どうも、どうもなどと互いに言いながら、坂上がどこへ案内してくれるのか詩織は期待し、10分後にはファミリーレストランでコーヒーを飲んでいた。
なぜファミレス。もちろん口にも表情にも出さず、詩織は考えをめぐらせた。遅い時間になればいいとこに連れて行ってもらえるのか、謎の庶民派アピールなのか。どうにも分からないが、なにか考えがあるのだろう。やがて坂上は中座してどこかへ電話した。仕事の話だろうか。
3分ほどで戻ってきた坂上に、詩織は尋ねた。
「すみません、今日もしかしてお忙しかったですか?」
「いえいえ、そんなことは。菅原さんとゆっくりお話したかったですし。あ、来た」
気づくと詩織の横に、ファイルを抱えた初老の男性が立っていた。男は失礼します、と言いながら、詩織を奥に押し込めるように腰掛けた。
「こちら、田口さん」
「はじめまして」
と田口さんはにこやかな笑顔で言った。
わけもわからず首をひねりながら詩織が黙っていたところ、坂上はにこやかに、やや芝居がかった声で話し始めた。
「菅原さん。貴女にとって、腕時計とはどういうものですか?」
全く予想していなかった状況と会話の切り出しに、詩織は体を固くしていた。
「う、腕時計? 時間を知るものですが」
「いえ、そういうことでなくてですね」
坂上は笑みを深くした。
「結局は誰かに見せるものか、自己満足か、の二択ということですね。これはつまり、貴女が異性に対して何を望んでいるかの質問なのです」
「はあ」
それは腕時計をしている人に訊くべきでは、という言葉を詩織は飲み込んだ。
「僕は貴女を見込んでいます。はっきり言いますが、貴女と仕事がしたい」
田口さんがどうぞと言いながら詩織の前にファイルを広げた。何かのカタログだった。坂上は説明を始めた。
「これは大変良い製品なのですが、一つ買うと5個売る権利が付いてきます。貴女は女性社員の中でも中心的人」
最後まで話しを聞かず詩織は立ち上がった。引き留めようとする田口さんを「ジジイどけ」とヒジで強引に押しのけ、コーヒー代の400円を坂上の足元に放り投げた。
「菅原さん! 話を聴いてください!」
「どけ。ピスタチオカチ割んぞ」
詩織は坂上の下腹部に視線を落とした。想像もしなかった強い反発と下品な言葉にたじろぎながらも、坂上は食い下がった。
「絶対成功しますから! 悪いことでもないんですよ!?」
「どけ。臭いから喋るな」
詩織は出口へ向かった。走ってきた坂上が詩織の肩をつかんだ。詩織は振り向かずに言った。
「何よ! 警察呼ぶわよ!」
「22円足りません」
詩織は舌打ちをし、後ろ向きに30円を放り投げた。
「死ね、ネズミ共。共食いして死ね」
大声で退店する詩織を追ってくる者はもういなかった。
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