更級ダイアリー
桑原賢五郎丸
エイヒレを口から垂らしながら菅原詩織は下品に笑った
菅原詩織は酔っていた。
冷酒がいたく口に合ったということもあり、先程までの居酒屋内での会話を思い出しては気分良く歩いていた。深夜の帰り道をニヤニヤ、よたよたと歩きながら携帯電話でスケジュールを確認する。1月最終週の千葉の夜道はたいそう冷えたが、気分の高揚が寒さを吹き飛ばしていた。
話は数時間前にさかのぼる。会社の女性同僚数人との、給料日恒例の飲み会の日だった。最初は仕事の話やパソコンの操作方法などの実務的な話だが、参加メンバーは20代後半から30代前半の独身のため、必然恋愛の話になる。
飲みはじめて1時間ほど経過し、酔いが軽く回ってきた会話の中で、詩織は営業部トップの売上を誇る男性社員から興味を持たれていることを知った。
詩織は眼鏡の中央を人差し指で上げ、わざとらしくため息をついた。
「まあ、営業部の成績は少し耳にするけど、今回の坂上さんの売上トップもたまたまなんじゃない?」
会話の軸をずらす。ホッケの塩焼きを丁寧に箸でほぐし、ビールで流し込む。男というものがこちらを好いていても素直に喜ぶことはできない。
詩織は3年前、恋人に二股をかけられ、あっけなく振られた。5年前にはお金を持ち逃げされた。10代のころ初めて付き合った男が、痴漢で捕まったことを先日知った。詩織からしてみれば、全ての男は信用ができない獣だった。世の中の男全てがそうだというわけではなにとしても、詩織が愛した男は、いずれ劣らぬクズだったのだ。
「いやいや実力よ」
「3ヶ月連続成績上位で、ついにトップだから実力でしょうね」
「それにかっこいいよね、あの人」
と誰かが言う。確かに坂上は男前だった。年齢は32歳で独身、川崎の実家から会社のある御徒町まで通っていることも詩織は知っていた。取り立てて知りたいわけではなかったが、噂が耳に入ってきていたのだ。ウーロンハイが薄いので焼酎を足した。
「少しずつ売上も伸ばして、ついにトップだもんね」
「けっこう狙っている人多いんじゃない?」
「真面目そうだし」
詩織は2杯目のハイボールをあおりつつ、2切れのシメ鯖をいっぺんに口に運び、
「それなら、誰か付き合ってみればいいじゃない」
と興味ない風で言った。全員が詩織を見る。
「詩織が一番可能性高いって話をしてるんだけど」
ハイボールを飲み干し、詩織はつとめて冷静にふるまった。
「あ、そうなんだ。へえ」
へえ、のところで声が裏返った。落ち着くために冷酒を口に含む。
飲みの席で短所が挙げられないということは、もしかしたら坂上という男は、本当に優れた男なのかもしれない。ブリの刺身が箸に挟まれ大きく揺れている。
「けどね、男ってのは、女に寄ってくる時、何かしら悪巧みしてるもんなのよ」
過去の経験を思い出しながら、詩織はブリを口に放り込んだ。ガツガツ行くにはまだ早い。
一番若い娘が言った。
「じゃあ私、行ってみようかな」
「いえ、まずは私が調査してみるわ。ミル貝へし折るくらいの勢いで調べる」
カウンターを決める勢いで詩織は宣言した。再び全員が詩織を見た。冷静を装っているつもりなんだろうな、と誰にも見抜かれるほどの酔っ払いがそこにいた。そしてまた、こういう口の悪さが悪い男を惹きつけるのだろうなと全員が確信した。
冷酒のグラスをテーブルに叩きつけ、エイヒレを口から垂らしながらイヒイヒと笑い、詩織はむにゃむにゃと言った。
「誰かセッティングよろしく。なるべく早いうちに」
という気持ちの良い飲み会の帰りだった。
普段は駅から10分で着くマンションだが、この日は30分かかった。千葉県の市原市にあるこの物件は御徒町までの通勤には大変不便だが、内装がすこぶる良かったのだ。事故物件なのかと疑うほどに安く、おまけに最上階の角部屋だった。
服を脱ぐだけ脱いで水を飲む。感情が昂ぶって仕方ない。詩織はノートパソコンを開き、来週の土曜日に予定された坂上とのデートプランを夢想しながら、それはそれは恥ずかしい日記を書いた。
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