第3話 告白、公園にて
そんなこんなで社会人になった今も、彼女が居ようが居まいが、ハルはアタシを訪ねてくる事がよくある。ちょうど今日みたいに。っつーか、アタシも今彼氏いるんだけど。
「で、なんの用事?」
「アコ、僕は結婚する事になったよ」
「は? 誰と」
「この前話した人」
「あの彼女とまだ付き合ってんのか。すげえな。びっくりだわ」
びっくりだわ。本当に。
ハルは乾いた笑い声をあげる。
「おめでとうって言わないんだね」
「ってもなあ」
アタシはジャケットのポケットからタバコを取り出し、火を点けた。
白さを増した息がもうすっかり暮れ切った紺色の空に広がる。
公園の灯りが明るくて、星は見えなかったけれど、
ハルのことだ。
ハルの人生だ。
別に、アタシがあれこれ口出しする権利はない。けれども今ハルが付き合っている彼女と結婚するのには反対だ。
なぜって彼女と付き合い始めてから、彼はずいぶん
だから、言ったことがある。
「そんなに辛いなら別れたらどうだ」
って。
「それはできない。彼女が可哀想だ」
って。返ってきた。
なんだその可哀想って。
情けなんかで付き合っても、良いことないって言ったんだが、ハルは聞かなかった。
そのうえアタシには当たり前みたいに会いに来るのだから、訳が分からない。
「それこそ彼女が可哀想じゃあねえのかよ」
でもハルは、
「彼女にもアコの存在を認めて貰えたんだ」
と喜んでいた。無邪気に笑うハルをとがめることができないアタシもおかしな奴かもしれないが、その女も随分奇特だなと思った。
アタシがもう一度深く、溜め息と一緒に煙を吐き出すと、ハルは尋ねてきた。
「まだ吸ってるんだ」
「悪いかよ」
さっき貰って飲み切ったコーヒーの缶に灰を落とす。
「ん? いや、煙草は別に吸えばいいよ。まだその
「ああ。そういう事か。アンタはやめられたんだな。えらいな。あれから一度も吸ってない?」
「吸ってないよ。長い間禁煙して、久しぶりに吸うと、煙草が
そう言いながら、ハルはアタシの唇からタバコを取り上げた。
何をするのかと見ていたら、ハルはそのタバコをくわえた。
すっと、息をするのと同時に、先端のオレンジ色がコウコウと燃えた。そこから小さな小さなチリが燃えながらに切り離され、ふわっと宙に舞って、灰になって、闇に消えた。
「ああ、これは確かに、気持ちいい。やめられないね」
アタシも一度だけ吸い、残りを缶の中に入れた。じゅっと音がして、飲み口から細長い煙がゆっくりと屈みながら昇った。
「アタシが長く続くようにって助言してやった時はあっさり別れて、やめとけって言ったら結婚か。ったく、おちょくってんのか?」
「そんな馬鹿な。僕は至って真面目で冷静だよ」
「じゃあなんで結婚するんだよ」
「可哀想だからだよ」
アタシは
「だから、なんだその可哀想って。ばっかじゃねえの」
「だから馬鹿じゃないんだよ」
「アンタが今の彼女さんと結婚しても、アンタの幸せな顔が思い浮かばねえんだよ」
「良いんだよ。僕は幸せじゃあなくても」
「は?」
「人は、幸せにはなれない。孤独からも解放されない。結婚してもしなくても」
ハルは夜空を見上げる。つられてアタシも見上げる。いいかげん、星も輝きだしたみたいだ。
「でも、幸せにする事なら出来る。僕は自分の幸せを犠牲にして、彼女を幸せにする事にしたんだ」
「やっぱ馬鹿じゃん」
「至って真面目だよ」
ハルの中で結婚に対すると言うか、人生に対する価値観みたいなものは決まっているらしい。
アタシは考えを巡らせた。
ハルは、もしかしたらこの結婚を機に、会いに来ないのかもしれないな。
だからわざわざ呼びつけてきたのかもしれないな。
そう思うと、今までないがしろにしてきた感情が、フタの内側で渦を巻き始めた。それは不安と焦りを
「アタシ、ハルのこと好きだったよ。ずっと昔から」
言っている自分が驚いたと言うのに、ハルは驚いた様子もなく、ただ笑った。
「彼氏さん、居るでしょ?」
「居るよ。でもハルが彼女と別れるならアタシも別れるし、そしたら二人で、二人で」
唾を飲み込んだ。
これだけ乾いた口の中にもまだこんなにあるんだってくらいの唾液がのどを通っていく。
「結婚、とか、できる、じゃん?」
ハルは自嘲的な笑いを浮かべ、少し間をおいてから、ゆっくりと口を開いた。
「きっとそれが、正しい判断なんだろうね」
彼ののどの奥から厚みを持った空気がとても穏やかに響くものだから、アタシは急に安心してしまって、さっきまでフタの中で回っていた渦が、鳴りを潜めた。
「そうだよ。アンタはアタシより頭はいいけど、恋愛はヘタクソなんだから、アタシの言うことの方が正しいんだ」
「でもそれだと、僕が幸せになってしまうよ」
「いいじゃねえかそれで!」
「駄目だよ。そしたらアコが幸せになれない」
アタシは酷く間抜けな顔をしていただろう。
「僕はアコが与えてくれる幸せを吸いつくしてしまう。今だって僕が不幸にならないように、告白してくれた。それが君にどんな不幸を招くかなんて考えもしないで。君の向こう見ずの優しさに甘えてしまうのが怖いんだ。僕は弱いから。それに比べてアコの彼氏さんは凄く強いし良い人だ。君は彼に幸せにして貰うんだ。彼なら自分の不幸などお構いなしに君を幸せにするだろう。僕はアコの幸せな姿をずっと見ていたいんだ。結婚式にも行きたいし、お互いの子供を遊ばせたい。それが僕の願いなんだ」
その気持ちが、全く分からなければ良かった。
気持ちが悪いと思えれば良かった。
そうすれば彼の価値観を思いっきり否定できた。でもずっとハルと一緒に話してきたから、ハルのそういう馬鹿げた極論をずっと聞かされて来てから、ハルの言っていることも言わんとしていることも解ってしまって辛かった。
「馬鹿、じゃないな。もう変態だよ、ド変態」
そう言って
「全部解っているくせに、そうやって分からないフリをするところ、アコらしくて良いね。そんなアコの事が好きだよ。だからこそ、やっぱり幸せになって欲しい」
皮肉も駆け引きも無い、理不尽なまでに無邪気な願い。
ハルは立ち上がりアタシを見下ろした。
彼を見上げると、目を細めて笑っている。儚げな笑みだった。
「そんな事、言いに来たのかよ」
「そうだよ。付き合ってくれてありがとう。もう帰ろう」
まったく勝手な奴だ。
こっちはまだ全然心の整理がついてないのに、なんでそんなに平気そうに淡々と話を進められるんだよ。
アタシがしばらく動かないで空き缶の中の闇を見つめていると、ハルの冷えた手が頬に当たった。
何をするのか分からなかったが、何もしないでいたら、ハルはアタシの首からマフラーを
ああ。
ぬくみが逃げていく。
ハルは更に、アタシが見つめていた闇をかすめ取った。
「捨てとくよ」
ハルは缶の上の方を指で掴んで左右に振って見せた。
さっきまであそこにはハルの優しさがあったはずだ。それをアタシが飲み干して、タバコを入れて、最後はアンタが捨てに行く。
きっとほっといても冷めて不味くなるだけのものなんだから、温かい内に飲み干すのが正解なんだけど。
きっと不正解を選んだからって死にはしないんだけど。
ハルもアタシも正解を選びたがる人間なんだなと、彼の後姿を見送りながらそんな事を考えた。
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