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「ネットを編むんですか」
「ネットを編むんですね」
奥井さんはプラスチックのコップをコン、と机に置いた。
「ネットを編むんです。向こう岸に渡るのに、細いネットだと怖い、吊橋にして木を置くといくらかマシだけどまだ怖い。じゃあネットを太くしましょう」
「いやフニャフニャしてたらよろけそうで怖いっすよ・・・」
「仮定だよ仮定」
四限の授業中だからか、学食はガラガラだった。僕と奥井さんの前には食べ終わったうどんの丼がドンと置いてある。コップと箸とトレーの他に、左右にはしばらくなにもない。
「仮定の話だから。いいかい、ネットを編むんです。射幸心にあてられる生活ではいけない。堅実とはどういうことでしょう。突貫で向こう岸に渡るようにするために、とりあえず木材を渡すとしましょう。怖くないですか? 私は怖い」
「ネットだって怖いですよ・・・」
「ネットは包容力がある。編むんです。少しずつ、日々の生活の中で大切に織っていきましょう。布くらい細かいものが、横幅四、五メートル続くくらいで、それで向こう岸までビーンと、手すり付きでこさえられるように支度をしましょう。研鑽を重ねるのですよ」
「はい」
「言葉とは嘘です。言葉で約束事ができますか。言葉だけで、何か取り決めができますか。よく人は驕ります。言葉で相手に向き合うことが誠実だと勘違いする。それは違います」
「はい」
「いいですか、言葉はツールです。言葉に信用や説得力を持たせるのは、態度、表情、シチュエーション、事前の評価、あとは他人と相互に信用のある人物かどうか、とか色々ありますが、大事なのは言葉そのものではないということです。言葉だけで人を信用するに至ることがあるでしょうか。そこには何か担保があるはずです。あるでしょ?」
「はあ」
「言葉で信用を補強したいなら、膨大な数の優しい、弱い言葉を積むことです。というか、それが出来るならさっき上げた態度や表情とかも一緒に補強できるものでしょう。小さい言葉を丁寧に積み上げてください。強い言葉は敵ですよ」
そう言う割に、奥井さんの語気は強く、言葉自体も強めなものが多いように感じる。
「優しい言葉で細かく撚って繋げていったものは丈夫です。しかし穴の大きなものを突貫で作ると信用ならないものが出来ますね。強い言葉はそこに木を渡してくれます。ただし、強い言葉は使えば使うほど弱くなっていきます。そして一度濫用されだすと、より強い言葉しか使えなくなってしまいます」
「強い言葉が危ないものに見えてきました」
「誰かを救うために急ごしらえでも吊橋が必要な機会があるでしょう。私達はしばしば強い言葉を使いますね。強い言葉で励まします。敵を非難します。まあそれくらいなら仕方ないでしょう。でも強い言葉で救ってしまうと、次も強い言葉で救わなければいけない。それはその人の為になるものなんでしょうか」
「必要なら別によくないですか? そうでないとどうにもできないから強い言葉に要請がかかるのだと思います」
奥井さんは若干ムキになっているようだった。格好は上品で明るくあるのに、顔からは闘争心が隠せないままみたいだ。
「強い言葉は毒なんだ。いいから、まず、その前提だけ理解して欲しい」
人間は、欲求を抽象化させて生っぽく表現されると、近寄らないほうがいいものと自然に察するものらしい。
渋谷は息が詰まる。渋谷に限らず、何かしらに飢えた人たちが右往左往しているのが大都市圏であるように思う。そこに欲求を満たす何かがあると思って、人々が吸い寄せられている。お金や名誉ならかわいい。寂しさや存在意義を掴み損ねて、漫然と漂っていそうな世界で残り滓をかき集めようと必死でもがいている人たちは、いくら上から着込んで武装しようとも、消せない生臭さを周囲に漂わせている。
寂しさを忙しさで覆い隠そうとしていた。僕もそうだし、僕のまわりにいる多くの人が、今生きているこの時間が貴重で希少なものだと思いこんでいる。相互に思い込んでいることを前提にして、お互いが不寛容なのを許容している。
でも、それでいいのだろうか。寂しくて集まった僕らが、お互いを突き放しあうことで安心してしまってはいないだろうか。
「夢のあるなしで人を図るのは、ちょっとやりすぎな気がするな」
「夢自体がなあ、語ってる時点で欺瞞チックな感じが」
「なんだよそれ、言葉が強いぞ」
室井くんが串カツの串をポキッと負った。
「強いからなんなんだよ、強くって何が悪いんだ」
「強い言葉を使いまくるとだんだん弱く見えてくるらしいよ。君が次に使う強い言葉の威力は、本来のものより落ちているようになるわけよ」
「君はメンヘラだよな」
「は?」
「いや煽ってんじゃなくてさ、メンヘラってすごく力強い救済を欲しがるでしょ。欲しいだろ君は。愛されたい、抱きしめられたい、求められたい。その為なら虐げられてもいい。この考えは矛盾してるんだよ。メンヘラってすごい矛盾してる存在なんだよね」
「急にどうした」
室井くんはモソモソと頬に溜めていた串カツをサワーで流し込んだようだった。
「ぐあー美味しくない! えっと何だっけ・・・あ、メンヘラだ。メンヘラはな、面倒くさいんだよ。お前は面倒くさい。自分でも分かってるよな」
「もう面倒くさいって言われ慣れてるよ・・・」
「やっぱな。メンヘラは綺麗な自分をつくりたい一方で、そうして出来た表面的な自分と元来の汚い部分の濃い自分とのギャップに苦しむ。男のメンヘラは埋もれがちで面倒くさいのだけど、まあ共通して何かに執着するから、そこを見てればなんとなく分かる。誰かにめっちゃ依存するし、何かルーティンを大事にしたり、逆に社会性を保つためのノルマがこなせない」
「うっ・・・」
「人一倍感受性が豊かで、悪く言えば傷つきやすい。なのにその自分の傷を他人に見せることには不器用で、誰にも理解してもらえないからどんどん寂しくなる。息苦しいから自己破壊衝動が強く出るし、何かに依存しやすいから依存先がうまくいかなくなるとめちゃくちゃに怒る。メンヘラとはそういうもん」
「随分と分かったようなことを言うよなお前は」
「健常者なので察する力があります」
「なんだそれ」
代々木公園のベンチは、さすがにこの時間になると帰る家がない人達が寝始める。室井くんはそんなのを意にも介さず、相変わらず大きい声で喋っている。左手にはチューハイ缶を持って、右手には折った串をウルヴァリンみたいにして挟んでいる。
「短絡的に彼ら彼女らを救済しようとするなら、まずは強い言葉よ。強い言葉で語りかける。君は悪くない、悪いのはアイツだ。君が傷つくのを私は許せない、なんて言って同情する。懐に近づく。自己肯定感が希薄なのを誰かのせいにする奴ほど嘘をついているけど、自己肯定感が希薄な人は大体誰かのせいでそうなっているのは間違いない。そいつらの幻を一旦消してやる」
「騙してるんだから優しくなくないか」
「騙すかどうかはこの段階では考えてないでしょ。ただ僕は、こうして近づかれた人が不幸になるかと言ったら、決してそうではないと思うんだよね」
室井くんが缶ビールをあけた。プシュッと小気味のいい音が、近くの壁にあたって少しだけ反響した・・・ような気がした。
「なんにもわかんねえな、僕は呑むよ」
しばらく話しているうちに、何度か強い言葉に遭遇した。日常的に使われる言葉が強い言葉になってはいけないと思うのだけど、言葉とは進化するものなので、今ある状態を綺麗だと保存しておくのも道理にかなわない気がする。
言葉に対して倫理とはどれくらい手を上げていいものなのだろうか。僕が発するべき言葉には常に正解があるのを踏み外してここにいるのだろうな、という気がしている。
今になって考える。自分らしさってやつに朝は来るのか。歌の歌詞が染みる。僕が何か誰かになれる展望が開けないまま、ずるずると今日も終えて明日も終えて、これをこれからずっと繰り返していくのだろうか。
僕はしばらく考えて、何もわからなくなった。まずは自分にラーメンで短絡的な救済を与えないといけないと、僕らは財布を握りしめて街へ繰り出した。
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