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「私、好きな人のことが好きなんだよね。」
グラスを傾ける篠原さんの憂いを帯びた目線は、グラスの中の氷にプリズムの輝きを見出しているようだった。
些細な景色に投影される僅かな情動を積み重ねて、霞を食うような非効率さでロマンスを集めている。この人の「憂い」は末期の眼のようで、外側にいる僕の視点ではとても不安定なものに見えた。儚げといえば片付くだろうが、しかしすぐに死にそうな感じではない。
「僕も好きな人のことが好きなんですよね。」
全部見透かした上でおおよそのものを諦めて、死ぬことさえ面倒臭がるような人間。会ったばかりの人にこんな感想を持ったのは、この憂いや儚さに見覚えがあって、その人はこんな感じだったよなあと思い当たるものがあったから。だから本当のところはどうかは分からない。
儚そうで影がある人間は独特な色気があるだろうが、この人の人当たりはサッパリしていた。話すほどに不思議な人だ。
「君はつくづく難儀な人だよね、好きな人のことを好きになりたくないなんて。」
「僕は好きな人を好きでいられる人のほうがよく分からないですね。」
「私って難儀に見える?」
「どうでしょう。」
夜も10時を過ぎたファミレスの店内で佇む二人の机には、ほとんど食べ終えてしまったプレートが二皿、あとは水と氷の入ったグラス。外国人の給仕がひっきりなしに行き交っているが、僕のプレートには少し料理が残してあった。誰にも会話の邪魔をされたくなかった。
「友人でいたいと思っていて、実際に友人になれたと思います。僕は男で彼女は女性。性別が友情を分かつことがあるだろうとは思っていました。でも僕らは友人としてうまくやれていた。」
僕は悔しくてやるせない気持ちをそのままに喋った。篠原さんは黙ってウンウンと聞いてくれた。
「美人なのは最初から明らかでした。でも僕は彼女の人間性に惚れていたんです。生きかたに誠実というか、きちんと目標があって、ロードマップを引けていて、そこに至るための行動を全力でこなす。輝いて見えました。人としてですよ。」
「憧れてたんだね。」
僕はウン、と中くらいの頷きをした。
「だから久々に会った『その』夜に、僕は思わず逃げるように帰ってしまったんです。自分がこんな風に思うことに驚きと嫌悪がありました。僕は確かに自分の認識がガラッと変わってしまう瞬間を体験しました。恐ろしいものでした。」
「好きになったってこと?」
「友達に惚れてしまったんです。」
井の頭線の中で、僕は泣いていた。
近頃、涙腺が緩い。ちょっとのことで泣いてしまう。いつからかはぼんやりとしていて思い出せないけど、ガラガラの井の頭線に乗っていたあの頃は、まだ僕の涙腺は頑丈で、数ヶ月泣いていないような時だった。
僕には好きな人がいた。当時はあまりにもその人が好きで、生活のすべてだと思えるくらいだった。散々重たいと言われたけど、僕にとってはなくてはならない人で、その人の言葉のひとつで食事の量や頻度が頻繁に変わった。それくらい好きだった。
だから僕は、どうして電車の中で泣かなければいけないのか、まるで分からなかった。
頭が痛くて吐きそうになった。持ってきたティッシュを立て続けに消費して、ハンカチを顔に当ててじっと固まっていた。呼吸ばかりが荒くなっていた。気が動転していたのだと思う。好きな人のことを考えて思考を散らそうとしたが、却って具合を悪くするようだった。あれだけ好きだったはずなのに、押し寄せてくる強烈な感情に対してあまりにも無力だった。
僕は友達に恋をした。一目惚れだった。積み上げてきた信用と信頼の上から、溶かしたラクレットチーズみたいなファンシーで味の濃い感情がドロドロとかけられていく。
待ってくれ、やめてくれ、そうじゃないんだ。僕は彼女のことをそんな目で見たいわけじゃない。彼女は人間で僕も人間だ。同じ生き物で、対等で、思考があれば共有しあう仲がいいんだ。僕は人として彼女を尊敬しているし、その思想の一端に触れて僕も自分の価値観をアップデートしていきたい。そして僕も彼女の助けになりたい。そうして差し伸べる手が情欲で穢されていてはいけない。
でも、穢されてしまった。僕はポコポコと湧いて出る「好き」を止める術を持たなかった。リアルタイムで塗り替えられていく感情が、僕のメンタルにトドメを刺した。僕は自分がどこの誰よりも卑しい人間に感じられた。好きな人が既にいるのにこう思うこと自体が気持ち悪かった。でも何よりも許せなかったのは、フェアでありたかった相手を前に、僕が『男』であることを自覚してしまったことだ。
男性は女性を搾取する。性行為は暴力だ。男が男になるとき、人間としてではなく女として相手の存在を消費する。
僕はこのことが気持ち悪くて仕方なかった。男で居続けることを苦痛に感じた。なれるなら女性になりたいとどれだけ思ったことか。それが叶わないなら死んでしまったほうが清々するかもしれない。
そして僕が男と意識せず、相手を女と意識しないで済む友情関係は、僕の中の自信にもなっていた。男女に友情は生まれないという人がいるが、そんなことはない、エビデンスは僕だ、と胸を張って誇っていた。
僕は愚かだった。
「生活は続いていくのでしょうけど、僕には続ける自信がありません。」
「難儀だねえ・・・」
篠原さんは所在なげに水を飲んで、少し逡巡してから話しだした。
「あの子はいい子だからさ、どうしたって大丈夫だと思うよ。今どうしてるんだろうなあ。」
やっぱり、僕を見通すような、憂いの目をしている。目の前にある顔はとても綺麗で、男を落とすには困らないのかもしれないな、と思えるくらいだった。
「好きなんだったらさ、好きでいいと思うよ。一生懸命嫌いになろうとして、うまくいくのかな?」
「どうでしょうね。」
「だってその子のことが好きなんでしょ? その子の心も身体も。もうどこにも逃げられないじゃん。」
コップを置いて、微笑みを張り付けたまま、一段と低い声色で凄む。
「ねえ」
「はい」
「今更逃げられると思った?」
僕には好きな人がいる。
思慮深くて、気配りができて、理性だっていて、でも人間臭いところもあって。夢にかける思いは誰よりも強くて、見えてるところでも努力を惜しまないし、見えないところでならその何倍も努力しているだろう人だ。
そんな彼女を僕は好きで、応援したいと思っている。
彼女が何かを成し遂げた時に、ハイタッチに差し出す手が少しでも汚れていないように、僕は僕の中の彼女から女性性を分離させたい。
だけど悲しいかな、日を経るごとに彼女の魅力には拍車がかかって、会うたびに僕の脳はボイルされていく。小さい脳味噌で励ます僕の言葉に、どれだけの誠実さが、どれだけの価値があるのだろうか。
「私はね、好きな人のことが好きなんだよ。男性として。人間としては・・・どうだろうね。」
照れくさそうに嬉しそうに篠原さんは言う。眩しい顔がずるい。そしてすぐに伏し目がちになれば憂うような色気を纏って、残りわずかになったグラスを傾けながら見つめている。
敵わないなと思う相手が、だんだん女性ばかりになってきた。正しい生き方がなんなのかもよく分からないまま、下手くそな生活を開陳する生活は続く。
心がざわめくままになることを青春と呼びたくない。呼びたくないのは僕の身勝手なのだけど、このくびきに紐を繋がれて連れ回される生活を想像してみると、それはもう魅力的にさえ感じてしまうのだ。
これからどうなるかは分からないけど、ひとまず目の前の人と仲良くするのは許されるよな、と、そっとLINEのスタンプを送った。
生活は多分まだまだ続く。
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