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 陶酔させることを目的に作られる音楽というものがあるが、その中で僕の心を真の意味で陶酔させるものは少ない。

 本当にいい音楽は、止めたあとにイヤホンを外す動作の中でさえ、哀愁を見出すことができる。

 僕がゆく先には出会いがあり、出会いの裏側には別れがある。その人を深く知るほど、いずれ僕は侘しい気持ちを味わうことになる。

 会社へ向かって揺られる電車の中で、僕は一握のまどろみを見た。意識の水面に微かな波を立てるように、耳を通して僕の心を撫でにきた。

 垂れ流した音楽は僕が作為的に選んだものではない。ヒットチャートからランダムに流した音楽が、僕の心をときめかせる。そいつは僕の心をスーっと通過してったあと、何もなかったようにそこからなくなる。そうでいてくれたほうが、僕としてもいちいち音楽の所在を気にかける必要もなくなってよい。

 こうしているうちは、僕は自分の犯した誤謬から逃れることができる。まるで酒で悩みを繰り越すかのごとく、いっとき僕は現実を忘れることができる。そのような逃避は、いずれ将来の自分を苦しめることになるのだが、そうも言っていられないほどの苦しい現実がある。

 

 気の抜けたジンジャーエールを一口飲んだ。村岡くんと行ったダイナーで出されたジンジャーエールと同じ味がした。そうか、あれはこのブランドのものを出していたのか、と勝手に膝を打った。

 フロアではひっきりなしに電話が鳴っていた。今は繁忙期だから仕方がないことだが、炎上しかかった案件に部署全体が足を引っ張られているようだった。

 数十人がリレーするように次々誰かと話している。謝り倒す人もいれば発破をかけている人もいる。大半が電話越しであって、フェイストゥフェイスの会話はあまり飛んでこない。僕は自分の作業に打ち込む為に、外したイヤホンをかけ直した。


 昨日、村岡くんは昼過ぎに駅に現れた。

 外国人が占拠する椅子を横目に、フェンスにもたれかかるように携帯をいじっていると、彼は急に僕の視界の前に現れた。

「おっす。どんくらい待った?」

「いや特に」

 三十分くらい遅れてやってきた彼は、いくら事前に連絡していたとはいえ、極めて能天気に見えた。特に自分の行いを反省しているようには見えなかったが、そういう彼だからこそ僕も気負うものがなく接することができるのかもしれない。

「仕事のほうは順調?」

「取るに足らない人間だから、誰にでも出来ることしか扱わせてもらえないんだ」

「いやまあ、それは新人だからだろ」

 僕は彼に彼の仕事ぶりについて聞こうと思ったが、やめた。自己評価の低い彼が自己批判を始めるトリガーかもしれないものに触りたくなかった。

 自分について批判するとき、いっとき理解者を得たようなまやかしの安堵感が生じるのは僕だけだろうか。自分の思っている自分への不満やふがいなさも、口に出すことでどこか他人行儀な批判に聞こえ、脳のどこかが他人から自分への評価がくだされたのだと錯覚をする。もちろんそれは、顕在意識としては自作自演だと理解しているのだろうが、しかし言葉を言葉として発することには、自分に言い聞かせるという言葉どおりの「魔力」があるのだろう。

 当然自分の言葉であるのだから当たり前なのだが、こうして錯覚してしまうと「自分の感じている違和感を他の人も持っている」という発想が、もしかしたら心のどこかで生まれるのかもしれない。僕は今まで、そういう「自意識の拡張」を頼りに精神、というより正気を保ってきた。

 一方で、自分の不幸な身の上を話そうとすることは同情を欲している証左だという人もいる。正確にどちらが正しいのかは分からないが、世間一般で言われているのは後者かもしれない。潜在的な自己顕示欲が、擬似的な寂しさとなって発露するとき、その姿勢は憐憫の情を集めるのかもしれない。

 世間が憐憫収集家をやっても、僕と彼は自己陶酔の手段としてメンタルの復唱をやっているのだと、勝手に自分に言い聞かせる。が、隣の彼が全く同じことを考えていてくれているかは、確証が持てない。


 他愛もない会話をしているうちにダイナーに到着した。

 僕らは大学、僕らの母校に用事があってここまでやってきたが、人の話を聞く前にはともかく腹ごなしをする必要があった。

「一番安いハンバーガーにして、ドリンクはナシでいいや」

「デフォルトでポテトがついてくるのね。じゃあ僕はジンジャーエールにしようかな」

 コーラが好きな村岡くんが、わざわざ一番上に載っているコーラをスルーして、ジンジャーエールをチョイスしていた。僕らは現役時代から付き合いがあるけれど、彼がこういうお店に来てコーラ以外を頼んでいるところを見るのは初めてだった。

「しばらく合わないうちに飲み物の趣味が変わったの?」

「そんなにめずらしいかい」

 彼は注文を取りに来た店員が奥へ戻るまで一呼吸を置いてから続けた。

「君、コーラ飲まないだろ。飲み物を頼まないのだって、お金がないから遠慮してるんだろう。僕のを少し分けたげるよ。」

 僕は顔を横に振って、いらないよ、とジェスチャーした。

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