リサフランク

浅島 義俊

1

 僕は誤謬を犯したのかもしれない。

 深夜。チャットツールのログインアイコンが点灯している同期は一人もいない。フロントエンドのサーバーでパッチをデプロイしたまま、僕は机で動けなくなった。マグカップに淹れたココアはとっくに冷めている。

 終電のない僕には気にする時間もない。ただ延滞したCDを返す為に、銀座線の直上を渋谷まで歩かねばならない。明日は有給だが、有給を取ったのにも理由があるわけで、あまり遅くに帰ることは憚られていた。今となっては仕方のないことなので、自分のすべてを投げやりにしたまま、僕は再びサーバーの確認作業に入った。


 誰かと話すとき、誰かと遊ぶとき、その時間はしばしば自分でない存在の意識に拘束される。

 人生において、その人に与えられた持ち時間は限られている。その貴重な時間のいくらかを割いて、僕らは他者と交流している。

 他人に時間を委ねる覚悟もさることながら、他人から与えられた他人の生涯の一部を消費することには特に大きな責任がかかる。その時間が退屈なものにならないかは、与えられた人間の覚悟と力量、そして運にかかっている。

 そして相手が自分を退屈させないかどうかを判断する基準は、その人との信頼関係であったり、遠巻きに見る日頃の行いだったりする。

 自分には、人の人生に責任を持てる自信がない。


 新橋から赤坂へ向かう太い道の上で、僕がありもしない段差に躓いたのはつい先週のことだった。

 僕が、僕だけが一緒になるつもりでいた相手から、僕のことを取るに足らないものだと思われていることを告げられた。

「なんかさ、お前さんは私に対して夢を見すぎてないか? お前さんが私のことを好きだ、一緒にいたい、自分の作ったご飯を食べてから出勤してほしい、とか言うたびにさ、私は自分の将来について想像しなきゃいけなくなるんだよ。私はそれがしんどい。」

「ごめん。」

 ビルの隙間から吹き付ける秋の風が、所在なげに羽織られていたコートを捲り上げる。僕を武装していた詭弁と欺瞞の言葉が、みるみるうちに潤いを失っていくようだった。

 乾いた音を立てて散らかる枯れ葉もまばらな大通りを、数台のタクシーが駆け抜けていく。僕は次々に浮かんでくる考える必要もない言葉たちを掴まえては思考の脇に捨てる作業に没入するしかなかった。

 訥々と交わした会話の数々も最早覚えていない。僕は相手にあまりに多くのものを求めすぎていた。欲するばかりで独りよがりでいることを、とっくに見抜かれていたというのに。

 知らない明日が襲いくるまでに数時間の猶予もなかった。僕が明日から生きる孤独は今までの孤独とは違ういきものなのだ。僕が対峙することになる相手は今まで僕が戦ってきたものたちとは違うのだ。このような覚悟を決めなければいけない時間がいずれ来ることはとっくに分かっていたはずで、これから先もこのことを考える機会はいくらでもあるのだろう。寝起きの布団の中で足を攣った時の、これから来る苦しみを理解しながらも受け入れることに艱難して悶える時間に似ている。僕はこれからの人生でも、数え切れないほどの苦しみを味わう定めにあるのだ。

 知っている。知っていた。知っていたことさえも忘れていたが、今ははっきりと分かる。言えない気持ちを喉許で潰して、僕らは井の頭線の改札前でさよならをした。去り際に一瞥した後はついに一度も振り返らないで行った君の背中を目で追いかけながら、僕は左腕に残された温もりを閉じ込めるようにして、ゆっくりと腕を組んだ。そしてそのまま動けなくなった。


 あの日と同じ道を辿る僕の心が重たくないはずがなかった。

 流れていくタクシーは無風の摩天楼に頼りない対流を起こしていた。

 にべもなく光る街灯は、道のみを淡々と照らしている。

 僕の心を眩しく照らしたあの笑顔の抜けるような明るさには、どんな人工的な光でも敵わないだろう。

 なんて、大人気なく腐したところで、僕の心が晴れることはないのだ。

 イヤホン越しに聞こえるシティポップが、視界に入るあらゆるものよりシティだった。都会に冷たさや無機質さを求めるなら、いい勝負だったかもしれないけれど。

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