雷鳴

 あの日から数日経つが、藍斗くんとの関係は特に変わっていない。部活中は最低限の会話をするだけで、周りから見れば接点の少ない者同士といった感じだろう。お互い、あの日のことに触れることなく過ごしている。

 私からすれば、都合がよくてありがたい状況だ。万が一、あの店があの噂の店だったとすれば、誰かにばれてしまうのは困る。望んで私から誰かに話すわけではないとしても、あの特別な空間が、特別でなくなってしまうことがこわい。


 写真部は、6月末の作品展に向けて頑張っている。締め切りまでは、あと数週間。私たち2年生は後輩たちへの指導に忙しい。毎年、1年生はテーマを「学校」と決められているため、暇さえあれば校内を駆けまわっている。私たちは、それを先輩としてサポートしながら、自分の撮影を進めている。まあ、今まで通りいつの間にか話が盛り上がってしまい、あらぬ方向へ行ってしまうことが多いのだが…。


 去年までと大きく変わったのは、男の子が増えたということ。黄牙くんは人懐っこいタイプのようで、藍斗くんに絡んでは迷惑がられている。そして、それを翠が笑いながら見守っている。よくぞ、ここまで個性的な仲間たちがそろったなあ、と人ごとのように思って見ていると、雨の音が聞こえてきた。


 もうすぐ梅雨だ。部活を早めに切り上げて、家へ向かう。翠は、図書館に本を返してから帰ると言っていたし、藍斗くんはもう少し残っていくそうだ。ひとりぼっちで雨の中を歩く。坂を下っている途中で、急に雨が強くなってきた。急いで足を進めるが、雨はどんどんひどくなるばかり。地面に跳ね返る水しぶきで、あたりが白くなりつつある。

 ピシャリ、と大きな音が聞こえた。近くに落ちたのではないかと思うほどの大きさに、思わず小さく悲鳴を上げる。いやだ、こわい。この状況に耐えられなくなった私は走り出した。


ベルの音が響く。無我夢中で走った私は、見覚えのある建物へ飛び込んだのだ。

「シュガーさん………」

 ずぶ濡れになって入ってきた私を見て、シュガーさんは目を丸くする。

「あらあら、もう大丈夫よ?今、タオルを持ってくるからね」

 あたたかい店内に珈琲の香り。少し落ち着いてきた私は、タオルを受け取ってお礼を言う。

「ごめんなさい、雷がこわくて。気が付いたらここに向かってました」

 席に座って、ホットミルクをいただく。「あたたまると落ち着くわよ」と言ってシュガーさんが出してくれたのだ。甘くてとてもおいしい。

「それにしても、ひどい雨ね。雷もまだ近くにいるみたい」

 窓の外で時折発せられる強い光に目をやりながら、シュガーさんが言う。雨の音にかきけされそうになりながらも、6時を知らせるチャイムがかすかに聞こえる。いつもだったらまだ外も明るい時間帯のはずだが、分厚い雲に覆われた空はもう暗くなってきている。

「雷が落ち着くまで、少しここにいてもいいですか?」

「ええ、大丈夫よ。でも、ひどい雨だから、おうちの人が心配しないように連絡は入れておきましょうね」

 たしかに、この状況では帰ってこれないのかと心配しているかもしれない。シュガーさんに言われたとおり、「少し雨宿りをしている」とを連絡を入れた。

それから30分ほどは経ったのだろうか。窓の外ではさっきと変わらず強い雨が降り続いている。雷の音も変わらない。一人じゃなくて本当に良かった。

そういえば、さっきからシュガーさんがしきりに時計を気にしている。そうだよね、いつもならそろそろ店を閉める時間のはず。

「あの、シュガーさん。私、帰ります」

「え?だめよ。まだこんなに雨が強いもの」

 でも、迷惑をかけるわけにはいかないし…。


その時、カタカタと扉の方から音が聞こえてきた。シュガーさんが駆け寄って扉を開けると、小さな黒猫がずぶ濡れになって入ってきた。

「あっ………」

 その姿には見覚えがあった。前にも会ったことがある。赤いリボンに金色のプレート。間違いなく、あの日私をカロンまで導いてくれた、あの子だ。

「良かったわ、ニュクス」

 ニュクスと呼ばれたその猫は、差し出されたタオルにくるまりながら一生懸命に毛づくろいをしている。たしか、猫って水が苦手だったはず。この雨の中歩いてくるのはよほどつらかったに違いない。

「その猫、シュガーさんが飼っているんですか?」

 私の質問に、シュガーさんは少し困った顔をする。

「飼っているというか、住み着いているというか…」

 どうやら、気が付いたらもうこのお店にいたらしい。猫も私と一緒なのかな。だってこのお店、居心地がとってもいいもの。

 毛並みを整えた黒猫が、立ち上がって「みゃあ」と小さく鳴いた。

「そうね、もう時間ね」

 黒猫を抱き上げ、シュガーさんが私を見る。

「きっとこれも、何かの縁だと思うわ。この子、人がいるときは絶対に姿を見せないもの。少し、ついて来てくれるかしら?」

 状況はよくわからないが、言われた通りシュガーさんに続いて階段を上る。当たり前だけど、このお店の二階に上がるのは初めてだ。薄暗いなかでつかんだてすりは、少しだけ湿気を含んで、ひんやりとしている。

 二階にはいくつか部屋があるようだが、その中にある一つのドアの前に立つ。木でできたドアには金色の金具がつけられており、円形にくりぬかれた空間に、ステンドグラスのようなガラスがはめ込まれている。

 がちゃり、と少し重たい音を立てて開いたドアの奥には、小さなテーブルを中心にして、こじんまりとした空間が広がっていた。

シュガーさんの手元から「みゃあ」と鳴いて猫が飛び降りた。トンッと音を立ててテーブルに乗ったあと、置いてあるバスケットの中へ入っていった。

「驚いちゃ、だめよ」

 一体何を、と思ったのもつかの間。そこにあったはずのカタマリが、消えていた。

「え……………、何……?」

 状況がつかめずに混乱している私を見て、シュガーさんは微笑んでいた。

何が起きたのだろう。私は夢を見ているのかな。それに、あの猫の目の色が、澄んだ緑のように見えたその目の色が、消える直前に深い赤色に変わったように見えたのは気のせいだったのだろうか。その答えは、バスケットのなかにあった。あの目の色と同じように不思議な輝きを見せる小さなカタマリが、間違いなくあの猫が消えてしまったことを私に実感させた。

「あら、めずらしいものが見えるわよ」

 窓の外に視線を移すと、いつの間にか晴れた空に綺麗な満月が顔を出している。その周辺には、虹のように見える何色もの光がぼんやりと浮かんでいた。

「夢………?」

 あまりにも普段とは違うことばかりが起きている。やっぱりこれはすべて夢なのではないだろうか。


 楽しそうに笑うシュガーさんに連れられて一階へ降りる。気を抜くと足を踏み外しそうになってしまう。

「夢じゃないわよ」

 私の心を見透かしたように、そう声をかけてきた。

「じゃあ、もう遅いから帰らないとね」

 時計を見ると、七時を過ぎている。あっという間に夜になっていた。言葉にできないほどの、いろいろ聞きたいことはあるけれど…。たしかに、そろそろ帰らないと親が心配するだろう。

「あの………、私、また来ますね。ありがとうございました」

 ぼんやりとした頭でそう言いながら、取っ手に手をかける。

「今日のことは、ヒミツ、よ?」

 いつもと同じように、美しい微笑みを浮かべた彼女が私を見ていた。


 頭を下げて店を出る。見上げると綺麗な月と、めずらしい夜の虹が広がっていた。

「なんだか、とんでもないものを見た気がする…」

 ベッドに倒れこんだ私は、何度も何度もあの光景を頭の中に映し出す。考えれば考えるほど、夢だと思う。もしかして、私はずっとこのベッドの上で寝ていたのだろうか。

しばらくして、ドアの向こうから私を呼ぶ母の声で我に返り、家族のもとへと向かった。

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