境界
今日こそは、絶対に行くんだ。朝からそう意気込んでいた私は、風を切って勢いよく坂を下ってゆく。今日を逃したら、またしばらく行けないかもしれない。最近全く行けなかったから、そろそろ限界なのに。
「こんにちはっ」
勢いよく扉を開けると、中にいたおじいさんが咳込んでいる。どうやら急に大声を出した私に驚いて、珈琲が入ってはいけないところに入ってしまったらしい。悪いことをした。謝りながら席に着く。
「カフェラテのスペシャルお願いします」
シュガーさんが棚からカップを取り出す。いつ見ても綺麗だなあ。しばらくすると、とてもいい香りが漂ってきた。
「どうぞ、召し上がれ」
「いただきます」
カップを持ち上げると、その香りがより一層感じられる。あちち、とやけどしそうになりつつも一口含むと、幸せの味がした。
「あー、私、この一杯のために今日まで頑張ってきたんです」
「なんだか、ビールを飲む会社員みたいね」
そう言われて、少し恥ずかしくなる。でも、これが本心なのだ。頑張った自分への、最大のご褒美。あたたかくて甘い、でもどこか大人の味。この瞬間は特別な気分になれるのだ。今の私はとっても幸せだ。
「だって、来たくても来れなかったんですもん」
一口一口を大事に、味わって飲んでゆく。
「そうだ、写真部、1年生4人入りました!」
「良かったわねえ」
お皿を洗う手を止めたシュガーさんは、笑いながら私の話を聞いてくれる。
「それが、この前ここで会った男の子が入ってきたんです。もう、びっくりしちゃって。毎日バタバタで、その子とはあんまり話せてないんですけど…」
「すごい偶然ね。運命みたいで素敵じゃない」
きらきらと目を輝かせて、シュガーさんがこっちを見ている。「青春ねえ、いいわあ」と私を見てにこにこしている。シュガーさんが想像するような展開は、何一つないのだけれど。
そういえば…。
「シュガーさん、これ…」
話を変えようと、カバンからあるものを取り出す。
「この前来た時に撮った写真です」
写真を受け取ったシュガーさんは、それを見つめたあと微笑んだ。
「ありがとう。こんなに素敵に撮ってくれたのね」
1枚1枚、丁寧に見てくれている。人に見てもらう瞬間は、何度経験してもやっぱり緊張する。そして、なんだか恥ずかしい。
「ちょっとフレアが入っちゃて、ぼんやりしてるところもあるんですけれど、それがかえってやわらかい雰囲気に写ってよかったな、って」
沈黙に耐え切れなくなって説明すると、シュガーさんが顔を上げる。
「そうね、とってもやわらかくてあたたかいわ。点々と写った日の光がとても綺麗」
ほっと胸をなでおろす。そう言ってもらえると嬉しい。
「そういえば、フレアって、別名があるのよ。知っているかしら?」
急にどうしたのだろうと思ってシュガーさんを見ると、いつもと変わらない笑顔でこう言った。
「ゴースト、って言うのよ」
カランとベルが鳴ってドアが開いた。
シュガーさんが「いらっしゃい」と声をかけると、そこには見覚えのある姿があった。
「藍斗くん」
私に名前を呼ばれた彼は、ペコリと頭を下げる。
「前にも会いましたね」
そう言って、今日は私の二つ隣の席へ座り、「ブレンドを」と頼んでいる。あの日に飲んでいたのは、やっぱり、それだったんだ。年下なのに、大人だ。
「聞いたわよ、あなたたち同じ部活なんですってねえ」
めちゃくちゃ何かを期待している。だって、わかりやすいくらいシュガーさんの目がきらきらと輝いているもの。
「ほんと、部登録の日はびっくりだったよー」
「あ、なんかすみません」
なぜか謝られてしまった。何度も放課後に部室で会ってはいるけれど、こうやってちゃんと話すのは、何気に初めての気がする。
「最近こっち戻ってきたばっかりで、いまいち学校のことわかってなくて」
どうやら藍斗くんの家は、いわゆる転勤族というものらしい。お父さんの仕事の都合で、小さいころから引っ越しを繰り返し、同じ街に5年以上住んだことは無いそうだ。
「この街は2年くらい。でも、中学に入学してすぐにまた引っ越し」
「大変なんだねえ」
自分には全くない経験を聞くと、平凡な返ししかできないことが恥ずかしくなる。
「じゃあ、またお父様がこの街でお仕事を?」
シュガーさんが尋ねる。
「いや、軌道に乗りまくって、めでたく海外進出らしいです」
素っ気なく藍斗くんが答えた。
「俺、英語できる気しないし、じゃあ日本に残ろう、って」
両親にそう言ってみたら、「高校生なんだし、頑張りなさい」と言ってもらえたらしい。さすがに一人暮らしは許してもらえなかったそうで、親戚の家に身を寄せているとのことだ。
カロンから、誰かと帰るのは初めてだ。
「瑠璃先輩は、昔からこの街に住んでいるんですか?」
「うん、ずっとそうだよ」
「へえー、うらやましいっす」
「あのさ、さっきから思っていたんだけど、最初とキャラ違くない?だってあの日…」
私があの日見た藍斗くんは、静かで、大人で、近寄りがたい雰囲気を持つ男の子だったと思う。甘くないのを飲んでいたし、本を読みながら難しそうな顔をしていたし…。
「ああ、あれですか?本?残念ながら見ていたのは図鑑です。パラパラめくってただけ」
少し困りながら、「第一印象と違うってよく言われます」と嘆いている。
たった1時間ほどの間で、空の色が少しずつ変わってきている。
「綺麗な色」
空を見上げてそうつぶやく私の横で、藍斗くんが話し出した。
「俺、小学生の時に大事な友達を亡くしてるんです。引っ越しばかりの俺が、唯一親友と言えるくらいのやつで、この街で、毎日一緒に遊んでた」
そう話す藍斗くんの横顔は、少し寂しそうだ。
「病気が見つかって、よくお見舞いに行ってたんですけど、そいつがある時から夜がこわいって言うようになって。しばらくして、そいつは亡くなりました」
なんて言っていいのかわからず、黙って藍斗くんを見ると、困った顔をしてこう続けた。
「すみません、困らせるつもりじゃなかったんです。ただ、毎日あいつと日が暮れるまで遊んだのを急に思いだしちゃって。そういえば、あいつがいなくなった日も、こうやってここから夕やけを見ていたなあ」
藍斗くんの表情が、少し寂しそうになった。
「久しぶりに誰かと帰ったからかな。俺は、この街で見た夕やけが大好きで、ここから見るのが一番きれいだと思うから。」
「私はこの街以外をほとんど知らないから、はっきりはわからないけれど、藍斗くんが言うならきっとそうなんだろうね」
私の言葉を聞いて、藍斗くんが笑う。
「瑠璃先輩、いい人ですね」
ほめられると悪い気はしない。肩を並べて、あの木の横を通り過ぎる。
「じゃあ、また部室で」
夕やけの中を歩いてゆく藍斗くんの後ろ姿を見送った。
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