宝石

 この街に初めて来たのは、もう20年以上も前のことになる。大好きだった祖父母が住んでいて、夏休みと冬休みに母に連れてきてもらっていた。この洋館の二階の窓から見える海があまりにも綺麗で、しばらくそこから動きたくないくらいお気に入りの風景だった。

 そして5年前に祖父が、3年前に祖母が亡くなりこの洋館は主を失って寂しそうにしていた。明かりの消えた窓に、枯れた草花。使い込まれたコーヒーミルが置かれた埃のかぶったテーブル。それらを見るとなんだかとても悲しくなってしまい、新たに息を吹き込みたくなったのだ。幸運にもこの洋館は特に引き取りたがっている人もなく、母に言ってみたら「2人も喜ぶわね」と簡単に許可を得ることができた。


 しばらくは別の仕事をしながら看板も出さずに珈琲を淹れる練習をしていたが、洋館の明かりに気づいた昔からの常連さんたちが次第に通ってくれるようになった。「珈琲の味がよく似てきたね」と言われることも増え、今に至っている。

 店の名前は昔と変わらず『カロン』だ。看板だけは古く割れてしまっていたので、新しく作った。丸みのある木の板に、丁寧に書いた。扉の横の窓にかけたので、果たしてこの看板に気づく人がいるのだろうか、とも思うが自分では満足している。


 最近では、この店の客層からすればめずらしい高校生の女の子がよく来てくれる。私のことをシュガーさんと呼んで、学校であった出来事をあれこれ楽しそうに話してくれるのだ。最近は、新年度が始まって忙しいのかしばらく来ていない。そういえば、もう少しすると部活の勧誘がどうとかこの前言っていた気がする、なんて考えながら看板を裏返してcloseにする。海のふちに、かすかに残っている太陽が沈もうとしていた。


 中に入りカーテンを閉めようとすると、足元から音が聞こえる。

「あら、ニュクス。だめよ、夜が来てしまうから」

 ニュクスと呼ばれた黒猫は扉を開けてほしそうに足をばたつかせていたが、あきらめておとなしくなった。

「きっとどこかで彼女が頑張ってくれているわよ」

 そう、この世界はそれぞれ夜の時間が違う。今もどこかで朝を迎えた世界がある。そろそろニュクスを部屋へ連れて行かないと。

 ニュクスを抱きかかえて、二階へ上る。私の大好きな大きな出窓があるこの部屋からは、海がよく見える。

「さあ、ニュクス。行ってらっしゃい」

 手を離すと、ニュクスは「みゃあ」と鳴いてテーブルの上に乗った。ビロードの布が敷かれたバスケットに入ると、少しうらめしそうにこちらを見てもう一度「みゃあ」と鳴いた。

「夜が来るわね」

 漆黒の布の上にはビー玉ほどの大きさの、アレキサンドライトでできた球体が転がっている。それはニュクスの瞳と同じ色をしていた。

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