第一章 出会い
第一話 準備
立維修が東北藩を出奔して都に来てから一ヶ月が過ぎようとしていた。
歩いている途中に見えた、幾つかの武家屋敷の庭に植えられた桜の木からは花びらが散り始めていた。数日前まで花見の喧騒が聞こえていたが、今朝はその気配が無い。
(もう花見も終わりかな)
立維はそう思いながら、ふうと溜め息をついた。
立維は都の、とある大通りに面した
(なぜこうなってしまったのか…)
立維はまた一つ大きなため息をついた。上京前から少し伸びた髪をぼりぼりと掻き、少し疲れたように猫背になっていた背を伸ばすと、袴についた埃を軽く叩いて払いながら、もう片方の手で戸を開けた。
「ごめん」
少し引っかかる戸を左に開けながら中に入ろうとした途端、立維の目の前に栗色の髪が踊った。
「わっ」
栗色の髪の中から高い声がした。
立維修は反射的に腰の太刀の鍔に手を添えつつ、後ろに下がって間合いを取る。
だが、立維の目に入ったのは、どうみても危険な人間には見えなかった。
栗色の髪を長く伸ばした細い顔、ほっそりとした体の線を強調するかのような絹で繊細に織られた上着。腰から下は、倭国の女性が着る着物とは違い、むしろ武士が履く袴のような裾に余裕のあるものを履いていた。
その人物の裾から見える、白くて細い足が目に入ると、立維は慌てて視線を上げた。そこでやっと、栗色の髪の左右から突き出た耳に気づいた。
(こやつ、エルフか)
立維は、実家がある東北藩では見ることの無かった欧国の女性が、世間では『えるふ』と呼ばれることを最近になって知った。
そして、立維はこのエルフを都で何度か見かけたことがあった。
確か、立維が都に来たばかりの頃、空いている長屋を探して大家に相談しに行った道中で、何処かの店の主人から挨拶されて笑顔で応えていた。
またある時には、飯を食いに蕎麦屋に入った時、店内の客と談笑していた。
何の用事があるのか知らないが、エルフが都をうろうろしている姿と揺れ動く長耳が、立維は印象に残っていた。
鉢合わせしたエルフも慌てて屋内に引っ込んでいたが、長い耳を少し動かすと、両手を後ろに回しながら少し腰をかがめ、苦笑いしながら話しかけてきた。
「ごめんなさい、お侍様。どうぞお入りください」
「う、うむ」
立維はエルフの前でわざと横柄な態度で長屋に入ると、中にいた人物、立維がこのひと月の間、毎日悪態をついている相手、口入れ屋の婆に素早く声をかけた。
「おい、口入れ屋、今日は魔法処理の仕事は無いか」
「おんや、今日もきなしたね、牢人さんや。もうドブ掃除は飽きたかえ?それとも壁塗りをやりたくなったのかえ?ヒョッヒョッ」
「おい、牢人という言い方はよせ。俺は先月まで東北藩に奉公していたのだぞ」
エルフの手前、立維は思わず見栄を張ろうとするが、番頭の婆の表現は正しいのだった。
立維は、斜め後ろに所在なげに立ったままのエルフを気にしながら話を続けた。
「この間やった不審な
刻印、という単語に、エルフは耳を小刻みに動かした。少し下げていた目線を上げると、改めて立維の横顔を見つめた。
「ヒョッヒョッ、無論じゃ。じゃがな牢人様よ、御主は魔法処理安全確保支援士試験の合格証明書を持っておらぬではないか。難しい魔法関連の仕事は紹介できぬぞい」
「それは毎回話しておるではないか。試験の合格通知は受け取っておるのだ。だが証明書の受取所が閉まっておるのだ」
立維は左手で刀と
「あの〜…」
そこに、先ほどのエルフが話しかけてきた。
「お侍様、魔法処理安全確保支援士試験はお受けになったのですか?この倭国の国家試験の」
「ああ、受けた。その長ったらしい試験名称は間違いない。確かに合格通知も受け取っておる」
なるほど…とエルフは細いアゴに手を当てて少し思案したあと、小さな握りこぶしでぽんと手を叩くと、こんな提案をしてきた。
「それでは、私達の
「なに」
「おや、かんなさん、ええのかえ?このご牢人は合格証明書を」
「お婆ちゃん、いいんです。それに、今は
「おい、
「えっ」
かんなは立維にずいと近づき、かんなより少し背の高い立維を
「立維様?もう一度お尋ねしますが、試験はお受けになったんですよね」
「ああ、技術があると口で言うだけでは中々信じてもらえぬからな」
「あっ、その物言い、何かの受け売りですね?」
「うむ、そうだったかなあ」
立維は素知らぬフリをしてかんなの視線から目を逸らす。
かんなは腕を組んで立維を睨めるが、ああ、と何故か納得した顔で笑顔になった。
「ん〜、まあいいでしょう。それでは
「何かお主の態度が気になるが…」
「えっ、私のことが気になる?」
かんなは恥じ入るような表情で体を隠すように横を向いた。
「いやいやいや、気になるのはその通りなのだが、いやそうではなくて」
「そうではなくて?」
かんなは立維に詰め寄る。
女性に慣れていない立維は慌てた。何せ田舎では女性といえは、母親と妹くらいしかロクに話したことがない。しかも異国の服装と倭国人の黒髪とは違う栗色の長髪、傷ひとつないエルフの白い肌。何もかもが目に余り、立維は動揺していた。
「な、なあ、早く仕事の話を進めないか。急いでいるんだろう」
「おっ、じゃあ受けてくださるんですね」
「まあ、
「有り難うございます、立維様」
かんなの笑顔を真っ直ぐに見れずに横を向いている立維を見て、口入れ屋の婆は呟いた。
「単純な奴じゃのう…」
かんなは腰帯に付けていた布袋から、大豆に短い枝と紐が付いたような物を取り出した。
「お侍様、これを耳の穴に入れてくださいませ。魔力を使って遠くの者と通話ができる魔道具です」
立維は状況が飲み込めなかった。しかしかんなと呼ばれたこの者の声には切迫感がある。
立維は、かんなの小さな手から手渡された小さな豆のようなものを耳に入れた。
「それは
「某の名は立維だ。戦時でも無いのに、鉢巻なぞは持ち歩いておらぬ」
「では立維様、
かんなは立維の耳に、
立維の頬にかんなの栗色の髪から突き出た長耳が触れ、パタパタの揺れる。
その様子を、口入れ屋の婆はにやにやしながら眺めていた。
「ヒョッヒョッ、牢人様、今回は幸運でございましたな。不審な
「あいすまぬ」
「
かんなは自分の耳に取り付けた
立維は小さく柔らかい、かんなの手の感触に
緊張し、引きずられるように外に出た。
そして足早に大通りを歩き始めたかんなの後を追おうとした時、
『ようし、了解した!』
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