おめでとうとありがとう(2)

 松井直がサッカーに興味を持ったのは、小学二年生のときだった。一歳上の兄である一の影響だ。兄を追いかけるように直も同じチームに入り、男子に混じってサッカーに熱中する。すばしっこいうえに体の強さもある直は、ストライカーとして活躍した。全国大会への出場も果たした。自分のゴールでチームの勝利に貢献することは、直の自信に繋がっていった。

 中学生になっても、直は深く考えず男子と同じサッカー部に入った。そこで壁にぶつかってしまう。どうしても避けて通れない、男女の体格差の問題だった。女子としては体格に恵まれている直だが、それでも成長期を迎えた男子にはパワーでもスピードでも勝てなくなっていく。試合に出場できる機会も大きく減った。少しずつ、それまで築いてきた自信は失われていくことになった。

 現実を自分の中で受け入れることには時間を要したが、直は高校からは女子サッカーに専念することを決意した。中学を卒業し、都内の女子サッカー強豪校に進学することになる。

 そこで、直は花開いた。一年生にしてレギュラーの座を獲得。中学時代に試合に出られなかった鬱憤を晴らすかのように、点を取って取って取りまくった。二年生の年には全国大会での優勝にも大きく貢献し、名を知られる存在になった。

 そして高校三年生になり、運命が大きく変わる。一八歳以下の女子日本代表候補に選ばれたのだった。


「……めちゃくちゃ凄いじゃないですか」

 千駄ヶ谷へ向かう電車の中で、隣の座席に座る元気が言った。本当に感心している様子だ。直は微笑んで、

「ありがとうございます。凄かったんですよ、あたし」

 素直に答えた。


 実際、なでしこリーグの複数のチームから声をかけられてはいた。代表選考合宿や練習試合でも結果を残し、正式に代表に選ばれた。

(あたしはこれからどんどん上へ行く。行けるところまで、行く!)

 そして高校三年生の夏、直は初めて女子日本代表の青いユニフォームを着て、海外の同世代の代表チームとの試合を迎える。そこで悲劇は起こった。

 前半終了間際、直は果敢に相手陣内へ攻め込んだ。すでに一点先制されており、直は焦っていた。どうにか前半のうちに追いつきたい。相手ディフェンダーも必死だった。

 空中での競り合いの中、突然頭に激痛が走り、直はうまく着地できずそのまま地面に倒れ込んだ。すぐに立ち上がろうとしたが、それまで経験したことが無いほど激しい頭痛が襲ってくる。おまけに吐き気も尋常ではなく、一向に止まらない。

 ハーフタイムまではどうにかピッチに立ったが、限界だった。すぐに救急車で病院に運ばれた。

 頭蓋骨骨折。相手ディフェンダーの肘が頭部を直撃したことが原因だった。決して故意ではなく、不幸な事故だった。


「後から聞いたんですけど、病院に運ばれるのが少しでも遅かったら、脳ヘルニアとかで死んでいた可能性が高かったらしいです。もし助かっていたとしても、深刻な後遺症が残っていたかもしれないって」

「……」

 千駄ヶ谷に到着し、二人は駅を出た。元気は言葉を失っている。

 なるべく淡々と言ったつもりだったが、それでもショックだったかもしれない。やはり大事な対局の前にするような話ではなかったか、と直は後悔した。しかし、ここで話を止めるのも不自然だ。

 将棋会館へ向かう道中も、直は話を続けた。

「それからしばらく入院して、がんばってリハビリを続けて……後遺症が残らなかったのは、不幸中の幸いでした」

 退院する頃には、冬を迎えていた。高校最後の年を棒に振った直が直面したのは、卒業後にサッカーを続けるかどうか、という選択だった。

「あたしはなでしこリーグが無理でも、どこか女子サッカー部がある大学を受験して、続けようと思いました。あたしみたいに試合中に頭蓋骨を骨折して生死の境をさまよっても、そこから復帰したサッカー選手は実際にいますし。けど、両親にも兄にも強く反対されました。お願いだからやめてくれって。親に泣いて頭を下げられたら、ねえ」

 スポーツに怪我は付きものとも言える。もし脚の怪我であれば、家族も反対しなかったかもしれない。だが、頭となれば話は違う。家族の心配は理解できたし、直自身、後遺症が出てくる可能性もゼロではない中で競技を続けるという決断は下せなかった。

「だから、そこであたしのサッカーは終わったんです」

「…………この間、フットサルはやってましたけど、大丈夫なんですか」

 元気が心配そうにたずねてきた。

「まあ、あれは遊びですから。今でも走ったり、筋トレしたりはしてますよ。体を動かすのは好きですし、お医者さんに禁止されてるわけでもありません。誘われたらフットサルにも参加してるんです。……でも、ヘディングは怖くてできませんけど」

「ああ……」

 元気がため息を漏らした。二人は歩く。お互いの顔を見ず、朝の駅前を並んで歩く。

「で、サッカー以外に何がやりたいのかわからないので、今はとりあえず両親のお店を手伝っているわけです。もう二年も経っちゃいましたけどね。……パン屋を手伝って、なんとなくわかってきたのは、いろんな人生があるんだなってことです。あたしにとってはサッカーが全てだったけど、バイトしてる子や、お客さんを見てると、全然違う生き方もあるんだって」

 そこまで話したところで、五階建ての建物が見えてきた。昨日、みちると一緒に見に来た建物……将棋会館だ。直は敷地に入る前に足を止めた。元気は不思議そうに、

「入らないんですか」

「入っていいんですか?」

「全然構いませんよ。対局室は無理ですが、売店や道場なんかは一般の方でも自由に入れます」

 昨日はみちるも直も予定があり、将棋会館の目の前まで来たところで別れていた。直はてっきり、関係者しか建物内に入ってはいけないと思い込んでいた。

「でも……」

 なんとなく直が躊躇していると、

「行きましょう。まだ時間はあります。中で話を聞かせて下さい」

 元気がそう言って、将棋会館の中へと入っていく。

「は、はい」

 直はあわてて元気についていく。玄関から上がったところで、元気は直を待ってくれていた。優しい目をしていたが、直に話の続きを促している。直はなぜだか泣きそうになっていることを自覚しながら、口を開いた。

「高森先生、あたし、高森先生に本当に悪いことをしたって思ってます。ごめんなさい。けど、それだけじゃなくって、なんていうか……先生にあたし自身を重ねてるんだと思います。勝手な話で申し訳ないんですけど。同い年で、プロになって、壁にぶつかって、怪我させられちゃって、それでも頑張ってて……。本当に勝手な話なんですけど!」

 言いたいことがまとまらない。焦ってしまうが、伝えたい!

「あたしがサッカーやってたときは、誰かに応援されることが力になりました。だから今は、あたしが応援したいと思った人を、高森先生を応援したい。ていうか、もう応援しています! あたしは高森先生を心から応援しています! それだけ、言いたくて……!」

 言葉をよく選んだつもりだったが、これもう告白みたいなものでは? と心の中で冷静なもう一人の直が指摘する。そして元気は直の言葉を聞きながら、まったく表情を変えていない。

(ひかれてる、ひかれてるゥー!)

 いたたまれない。顔が熱くなってくるのがわかる。直は一刻も早くこの場から去りたくなった。しかし、まだ帰るわけにはいかない。直は急いで自分の鞄から紙袋を取り出した。

「これ、うちのお店のドーナツです! 昼食や夕食は出前を取るんですよね。だったら、おやつとして食べていただければ……」

 紙袋を元気の鞄に入れ、それを彼の左手に渡す。

「ありがとうございます」

「そ、それじゃ、あたしはこれで!」

 直はそれだけ言って、出口に向かおうとした。が、

「松井さん」

 元気に呼び止められてしまった。

「……はい」

 振り向くと、元気がまっすぐこちらを向いていた。

「見ていてください。僕を、見ていてください」

「………………はい」

 直の返事を確認して大きくうなずくと、元気は直に背を向けて、建物の奥へと進んでいき、エレベーターへ乗り込む。エレベーターのドアが閉まるまで、直は一歩も動くことができなかった。

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