おめでとうとありがとう(3)
直はしばらくその場に立ち尽くしていた。が、ずっと立っていても仕方が無いと気が付く。元気は直に、見ていてくれと言った。しかし、対局室は一般人立ち入り禁止だ。
テレビのニュースでは、高校生棋士・井澤七段の対局の様子が流れることがある。あれは動画サイトの中継映像を使っていたはずだ。今日の元気の対局も中継されるかもしれない。よくわからないが調べてみよう、と直がスマートフォンを鞄から取り出したとき、
「お嬢さん、ちょっとよろしいですか」
突然背後から声をかけられた。思わずスマートフォンを落としそうになる。
「はい?」
直が振り向くと、スーツ姿の男性が立っていた。年齢は六〇代くらいに見える。直の父親よりも歳上に見えるが、老人と呼ぶのは失礼だろう。黒縁眼鏡をかけた男性は、どこか品があるように感じた。
将棋会館にいるということは、この人も棋士なのだろうか……と直が考えていると、男性が話しかけてくる。
「すみませんね、突然。ここに入ろうとしたところで、あなたと高森先生がなにやら話しているのが見えちゃってね。会話の中身までは聞こえなかったんだけども。失礼ですが、高森先生とはどういうご関係で……?」
「えっ」
ずばりたずねられて、直は困惑した。
一緒にフットサルした後に腕相撲で骨を折って病院送りにしてしまって……と馬鹿正直に話すのははばかられる。そもそも、見ず知らずに人に言う必要があるのか、とも思う。
だが、今の直と元気の関係を一言で表現できることに気がついたので、
「あたしは、高森先生のファンです!」
と言ってやった。
男性は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑った。
「ははは、そうですか、ファンね。高森先生のこと、好きなんだ?」
「えっ!?」
ストレートに聞かれ、直はまた困ってしまった。が、恥ずかしがってもしょうがないと思い、
「す、好きですけど……」
「あっはっは! そうですか! こりゃ高森先生も隅に置けないなぁ」
何がおかしいのか、男性は一人で爆笑している。
(あたしはなんで見知らぬおじさんとこんな話をしているのか……)
直は困り果てた。そもそも、この男性は何者なのか。あなた誰なんですか? と聞くのもなんだか今さらだ。
「じゃあ、今日の高森先生の対局もご覧になるのですか」
続けて男性にたずねられる。ちょうど良かった。直は逆に質問することにした。
「見たいと思ってるんですけど、よくわからないので、よかったら教えて下さい。動画サイトで中継されたりするわけですか?」
「いや、動画で中継されるのはタイトル戦とか、井澤先生の対局とか、注目度の高いものに限られるよね。今日の高森先生の対局は携帯中継のはずですよ」
「携帯中継?」
「これです、これ」
男性はそう言うと、脇に置かれていたパンフレットラックから一枚のパンフレットを取り、手渡してきた。直は受け取り、パンフレットを見る。井澤七段がスマートフォンを手にした写真とともに、将棋観戦用らしきアプリについてなにやら書かれていた。
「連盟の公式アプリで、ライブ中継があるんですよ。動画は無いけど、解説付きの棋譜がリアルタイムで更新されます。対局者の様子もチラチラと書かれますよ。さあ、レッツダウンロード!」
「は、はあ」
「お、もうこんな時間。私も行かなければ。それでは失礼します、お嬢さん」
「ええ……」
男性はくるっと体を反転させ、元気が向かったのと同じ方向へ歩いて行く。やがて、エレベーターの中へ姿を消した。
(なんだったんだ、いったい)
結局、お互いに名前も聞かずじまいだ。取り残された直はしばらく呆然としていたが、受け取ったパンフレットに視線を落とした。とりあえずこのアプリをダウンロードしてみようか。男性の言う通りであれば駒の動きと文章による解説だけなのだろうが、元気の戦いを見守ろう。映像が無いのは残念だが……。
直はふと、元気の笑顔を見たことが無いことに気が付いた。あのフットサルでゴールを決めたときも元気は笑っていなかった。その後も、元気は困っていたり恥ずかしがったりするばかりだった。
仮に動画で今日の対局が中継されていたとしても、元気が笑顔を見せることはないだろう。サッカーのようなスポーツは勝てば喜びを爆発させるのに対し、将棋は対局に勝利しても喜びを表現しないことは、直も理解している。
それでも……。
(やっぱり、笑った顔が見たいな)
対局室で盤に向かう元気を想像しながら、直はそんなことを思った。
× × × × × ×
時刻は午後三時を過ぎ、対局は中盤に入っている。元気は長考に沈んでいた。すでに見たことの無い局面に突入しており、この後の展開が予想できない。形勢は判断が難しいが、やや先手の赤崎九段が優勢のように思える。前回の対局は終盤まで元気が優勢だったが、今回は逆だ。赤崎九段がしっかり反省し、元気の将棋を研究してきたのかもしれない。
元気は盤を挟んで向かい合うベテラン棋士に視線を向けた。まだまだ疲れの色は見えない。赤崎九段は対局室に入ってきて元気のギプス姿を見た際も、ほとんど動揺していなかった。当然だが、元気を気遣って手を緩めるなどということも全く無い。
(プロだよな)
家族の生活のために一つでも多く勝ちたい、と赤崎九段は言っていた。その気持ちは元気も理解できる。
一方で、負けることがあるのは当然だ、とも思う。相手もプロなのだから、歴然とした力の差があるというわけではない。年間通して絶好調のトップ棋士であっても勝率は八割少々。負けるときは負けるのである。
そして、結果をそれほど重視しなくてよい対局もあると元気は考えている。例えば、これまで使っていなかった戦法を実戦で試してみるときや、自分のスタイルを変えようとしている時期だ。試行錯誤をする時期はどうしたって結果が出ず、負けが込んでしまう。そうした敗北は、将来の勝利のための必要経費のようなものだ。
だいたい元気の師匠の照井九段からして、勝敗をそれほど重視するタイプではない。『粘り勝って汚い棋譜を残すよりも、美しく敗れる方を選びたい』などと発言していることもあった。勝負師というよりも芸術家に近い感性を持つ棋士なのだ。
少年時代の元気が照井九段への弟子入りを選んだのは、そんな考えに共鳴したというのも理由の一つだ。勝つのなら、美しく鮮やかに勝ちたい。負けるとしても、醜い棋譜は残したくない。そんな思いを、今も元気は根っこのところで抱いている。
だが、この一局は違う。勝ちたいと心の底から思う。昇級もタイトル挑戦権も懸かっていない。それでも、元気にとって何としても勝ちたい一局なのだ。今日、この一局の意味が元気の中で大きく変わったのだ。
三〇分以上考えた末、元気はいまだに使い慣れない左手で自らの玉を前進させた。敵陣に玉が近付くことになるが、今はこれで良い。元気は、フットサルでゴレイロを努めていた自分が攻撃に参加したことを思い出した。
将棋は、ものすごく簡単に表現すれば玉を取られたら負けるゲームだ。だからと言って、玉を他の駒で囲って守りを固めればそれで勝てる、というほど単純ではない。元気の指す
赤崎九段が手を考える間に元気は鞄を開け、直にもらったドーナツを左手で取り出した。すぐにかぶりつく。砂糖がまぶしてあって、甘い。予想していたよりもずっと美味かった。
(今度、お店に買いに行こう)
などと考えつつ一気にドーナツを食べきり、ドリンクボトルを手に取った。直が買ってくれたものだ。左手しか使えない今、ストローは便利だった。非常に飲みやすい。
ストローで水を補給し、一息ついた。頭に浮かぶのは直のことだ。
もしもこの対局で元気が敗れれば、直は自らを責めるだろう。自分が骨を折ってしまったせいで、と。
あるいは、もっと深いところで傷付くかもしれない。直は元気に自分を重ねている。壁にぶつかっても乗り越え、成功を掴もうとしていた自分を。どれだけ頑張ろうとも、やっぱり人生どうにもならないことはある……と思ってしまうかもしれない。
いずれにせよ、元気の敗北は直の顔を曇らせるだろう。
(嫌だ。僕は彼女のそんな顔は見たくないぞ……!)
だから、勝つ。
どれだけ対局が長引こうとも、見栄えが悪い将棋になろうとも、勝つ。
直の応援が元気の力になったと証明してやるのだ、絶対に!
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