おめでとうとありがとう(1)
(いいところ住んでるなあ)
午前八時、一〇階建て賃貸マンションの玄関前に立ち、直はしみじみ思った。直と同い年にして、元気は自分でこんなマンションの家賃を払って暮らしているのだ。立派だと思う。家賃の額は気になるが、さすがに聞けない。
今日、元気は骨折してから初の対局になる。予定通り、直は着替えや荷物持ちを手伝い、対局が行われる千駄ヶ谷の将棋会館まで元気に同行する。対局は長時間に及ぶため、直はそこで帰ることになる。元気は明日の朝に仙台の実家に戻り、骨折が完治するまでは実家を拠点に生活するのだという。
元気は昨日のうちに退院したが、その際も直は諏訪隼人六段、興津みちる女流三段とともに手伝った。元気のマンションや将棋会館への下見を兼ねてのことだ。
元気をマンションへ連れ帰り、みんなで昼食の宅配ピザを食べた後、元気は家に残り、諏訪は自分の車で帰るため、将棋会館まで興津みちるが案内してくれることになった。
「元ちゃん、将棋の才能はずば抜けてるけれど、他は頼りないところあるから」
JR千駄ヶ谷駅へ向かう電車の中で、みちるが言っていたことを思い出す。
「本当に申し訳ないけど、明日はお願いしますね」
「ええ、任せてください!」
「おっ、頼もしい」
直の返事を聞き、中学生ぐらいにも見える女流棋士が笑った。
「今日は部屋が片付いてたけど、それは入院中にお母さんが掃除してくれてたからですからね。いつもは、すっごい汚いんだから」
『いつもは』。
「あ、そんなに高森先生のお宅へ行かれるんですか」
そう言ってから、自分が思いのほか動揺していることに直は驚いた。
「そうそう、研究会って言ってですね。何人かの棋士がたまに誰かの家に集まって将棋の研究をすることがあるんですよ。私と隼人くん、元ちゃんも定期的に集まりますね」
「へえ……」
みちるは直の動揺に気が付く様子は無かった。
(興津先生にとって、高森先生は弟みたいなものだもんね)
というか、なぜ直がそんなことを気にする必要があるのか。……直自身、うすうす感じてはいる。
マンションの入口に入り、タッチパネルで元気の部屋番号を押す。「はい」という元気の声が聞こえた。
「おはようございます、松井です~」
「おはようございます。ロック解除しますね。もう準備はほとんどできていますけど、とりあえず部屋まで来ていただければ」
「わかりました!」
マンション内部に入り、エレベーターで七階まで上がって、元気の部屋のインターホンを押す。「今開けます」という元気の声がした後、すぐにドアが開いた。
「おはようございます」
そう言って姿を現した元気の服装は、もちろん右腕はギプスを着けているものの、意外と整っていた。Tシャツ姿だったりするのでは、と直は思っていたのだが、すでにワイシャツもズボンも着ている。だが、よく見るとギプスを着けている右腕は袖に通していない。羽織るような形で、どうにか胸元以外のボタンを留めている状態だ。
「おはようございます。昨日の練習どおりの格好ですね」
「ええ、まあ。……すぐ出る必要がありますけど、とりあえず上がってください」
「はい、お邪魔します!」
直は笑顔で言って靴を脱ぎ、元気の部屋に入った。昨日も諏訪たちと一緒に入ったが、必要以上のインテリアが無い殺風景な部屋だ。ふと、男性一人暮らしの家に直一人で入るのは初めてだということに気が付いたが、意識しないようにした。今はそんなこと考えてる場合じゃない!
通常、棋士はタイトル戦などの大舞台を除けば、スーツにネクタイという姿で対局に臨む。だが右腕にギプスをしている今の元気では、ネクタイを締めることもスーツに右腕を通すことも厳しいと、昨日諏訪やみちると一緒に確認済みだ。だからといって、ワイシャツ姿では三月末の今、やや肌寒い。
「ええと、昨日のカーディガンはどちらに?」
「ああ、そこの椅子にかけてます」
元気に言われてテーブルの方向を見ると、確かにグレーのカーディガンが椅子にかけられていた。昨日、対局の日にどんな服装をするか諏訪たちと話して決めたものだ。
直はカーディガンを手に取り、
「よし、じゃあ着せてあげましょう」
「え? いやいや、大丈夫です、一人でなんとか着れますから」
「でも、片腕だけじゃ時間かかるでしょ。ほらほら、左手伸ばしてください。袖に通しますから」
「……すいません、お願いします」
結局、元気は素直に左手を伸ばしてくれた。押しに弱いな、と思いながら直は元気の左腕を袖に通し、カーディガンを羽織らせ、ボタンを留めてあげた。
「はい、できあがり」
「……ありがとうございます」
元気が照れくさそうに礼を言ってくれた。
(ちょっとかわいい……)
「あとは、荷物荷物! 準備はできてますか?」
なんだか直まで照れてしまったので、あわててテーブルの上に置かれた鞄を見て言った。
「ええ、準備してます。松井さんに買ってもらったドリンクボトルも入れてますよ」
「そうですか! 良かった。ぜひ使ってもらえれば……」
「あっ!」
「ど、どうしたんですか」
急に元気が声をあげたので、直は驚いた。
「……ボトルに水を入れるのを忘れていました」
「ダメじゃないですかー!」
みちるが元気のことを『将棋以外は頼りない』と評した意味を、直は実感したのだった。
急いでペットボトルに入った市販の飲料水をドリンクボトルに移し替えた後、二人は揃って部屋を出た。時間はじゅうぶん余裕がある。遠慮する元気をまた説得し、鞄は直が持ってあげた。左腕しか使えない元気に負担をかけさせるわけにはいかない。
マンションを出るまでの二分程度、二人の間にしばらく会話が無かった。沈黙が苦手な直としてはおしゃべりしたかったのだが、対局直前となると元気も集中したいかもしれない。どうしたものか?
……元気に確かめるしかないじゃないか。直の思考回路はいたってシンプルだった。
「あの、高森先生。試合前、じゃない対局前って、やっぱりいろいろ集中して考えたいものですか? そうだったら、あたし、なるべく黙っていますけど」
駅に向かって歩き始めたところで、直は元気にたずねてみた。
「え? そんなことはないですよ」
少しびっくりした顔で元気が答える。
「でも、ええと……これまで松井さんと話すときは、僕の話ばかりしてた気がするんです」
「そうでしたっけ?」
「ええ。松井さん、聞き上手だから」
「いや、そんなことは……。高森先生が骨折されてるから、不便なことがないか、いろいろ聞くことが多かったんだと思います」
「かもしれません。……だから、そろそろ松井さん自身のお話が聞きたいな、と」
「えっ? あたしの話……」
「ええ。サッカーをされてたことは話してもらいましたけど、もう少し詳しく聞いてみたいです、僕は」
「……」
これまで直と話す際は視線を逸らしがちだった元気が、今はまっすぐこちらの目を見ている。カウンター攻撃を決められたような気分だ、と直は思った。
どうしよう。
元気は軽い気持ちで聞いているだけだ。何も対局直前に話すことではないのではないか。余計なことを考えさせて、対局の邪魔になるのではないか。重たい女だと思われはしないか。誰にでも気軽に話せることではないのではないか。
そんな考えが頭の中に浮かんでくる。だけど。だけど、だ。
「わかりました。あたしのこと、話します」
この人ならいい。この人には、直のことをわかってもらいたい。
そんな自分の気持ちに正直になることにした。
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