被害者と加害者(3)
ベッドの上に正座し、子どもや素人が遊びに使うようなマグネット式の将棋盤を前に、元気は左手を使ってゆっくりと駒を並べた。入院から一週間以上が経過したが、当然ギプスはまだ取れない。それでも次の対局……玉位戦挑戦者決定リーグは四日後に迫っている。その前日に退院する許可は、正式に医師から下りた。
対局相手の最近の棋譜は諏訪に頼んでプリントアウトしてもらった。それを見ながら不慣れな左手で駒を動かす。時々は手を止めて対策を考える。自宅マンションにあるパソコンが使えない中で、どれほど有効なのかはわからない。それでもとにかく、左手で駒を扱うことに慣れる必要はある、と考えてのことだった。入院翌日から左手で駒を触るようにしてきたが、ぎこちなさはまだまだある。持ち時間を使い切って秒読みになった際でも、きちんと指せる程度には慣れておきたい。
……果たして勝てるのか。それ以前に、まともな将棋になるのか。ギプスを着けて対局するとなれば、どうしたって話題になる。雑音を耳に入れないように意識しても、完全に遮断するのは無理だろう。自分だけでなく対局相手にも迷惑をかけるかもしれない……。
そんなことをつい考えてしまい、集中が乱れているな、と元気が自覚したとき、
「洗濯物持ってきたよ~」
元気の洗濯物を入れた袋を手に、母の
「ああ、ありがとう」
「あら、もしかして集中してた? ごめんね」
「いや、全然集中できてなかった」
「ダメじゃない」
母が苦笑しながら、ベッド脇の椅子に座った。
「わかってると思うけど、お母さん今日で仙台に帰るからね。退院までの洗濯は、病院にある洗濯機と乾燥機使って自分でなんとかしなさいよ」
「できるよ、それくらい左手だけでも。二年も一人暮らししてるんだから」
「松井さんに洗濯してもらってもいいだろうけど」
「してもらわないよ! パンツとか、洗わせるわけにいかないだろ!」
「そんなにムキにならないでよ」
母がニヤニヤしながら言う。世話をしてくれるのはありがたい。が、ウザい、というのが正直なところだった。
「照井先生にも興津先生にも諏訪先生にも、お父さんと一緒に久しぶりにご挨拶できたし、もう東京でやり残したことは無い感じかな、お母さんは」
「そう……」
母は一週間以上ずっと元気のマンションに滞在し、身の回りの世話をしてくれた。その間、父も仕事の合間に二日間だけ仙台から上京して元気を見舞ってくれた。母と一緒に、師匠の照井九段たちとも会って話していたようだ。
そして退院翌日の対局を終えた後は、片手での一人暮らしも難しい以上、元気はいったん仙台の実家へ戻ることを予定していた。骨折が完治してギプスを外せるまでは基本的に実家で暮らし、対局があるときだけ上京し、ついでに病院で経過を診察してもらう……という生活リズムになる。
「はあ」
「なに、ため息ついちゃって」
「せっかくプロになって、東京へ出てきて一人暮らしを始めて、二〇歳も過ぎてるっていうのに、結局親の世話になってる。なんだか、情けない」
「え~? 今回は非常事態でしょ。困ったときは助け合うのが家族でしょうよ」
母は笑って、
「でもまあ、そういう自立心を持ってる元気のことは好きだよ、お母さん。同い年の子はまだ大学行ってろくに勉強せず、親の脛をかじってたりするケースもあるし」
「それはどうも」
母にそう返しつつ、元気はふと松井直のことを考えた。
彼女も元気と同い年だが、大学や専門学校には通わず、働いている。とはいえ、勤務先は自分の親が経営するパン屋だ。自立していると言っていいのかどうか、微妙なところだ。
そもそも、元気は彼女のことを何も知らない。どういう人生を送ってきたのか、なぜサッカーが尋常でなく上手いのか、付き合っている男性はいるのか……。
毎日病院に来てくれて明るく振る舞ってくれるが、もっぱら体の具合や仕事について元気が話しやすいよう話題を引き出してくれるばかりで、直自身の話は進んでしてこない。元気の方も突っ込んで聞くことはなかった。
(まあ今こんな状況だから、自分のことで精一杯ではある)
それでも、もう少し直のことを聞いても良いのではないか。このまま行けば、骨折が完治すれば、もう会うことがなくなる。
(……僕はそれでいいのか?)
元気が自問していると、
「おーい、元気、聞いてる?」
母の顔がいつの間にか眼前にあることに驚いた。
「わあっ! なに?」
「急に考え事始めるよね、いつも。別にいいけど。退院の日と、対局の日はどうするかって話よ。退院の日はお母さん出てこなくていいんだよね?」
「あ、ああ。みちるさんと諏訪さんが来てくれる。諏訪さんの車で僕のマンションまで送ってくれるって」
「持つべきものは優しい先輩ねえ。で、その次の日、対局のときはどうするの? 午前一〇時からでしょ? ってことは、それなりに早く家を出る必要があるよね。お母さん、マンションまで行った方がいい?」
「え? なんでだよ。別にいいよ。将棋会館まで行くくらい、この腕でも問題無いよ。そりゃ多少不便だけど」
「着替え、その腕で一人でできるの? 今みたいに服はなんでもいいわけじゃないんでしょ。対局なんだし、Tシャツやジャージで行くわけにもいかないでしょ」
「あっ」
対局の内容については考えても、服装のことは考えもしていなかった。
「ええと、そりゃ基本はスーツにネクタイだけど……こんなギプスしてるわけだから、ネクタイまではしなくても問題無いんじゃないかとは思う。スーツも無理があるかな。けど、ワイシャツなんかはやっぱりどうにかして着たいよね」
「でしょ? 一人で着られると思う? ボタンとか、ベルトとか、厳しくない?」
「確かに……」
万が一、着替えに時間がかかって対局に遅刻しました、などということがあっては恥ずかしすぎる。ただでさえギプス姿で注目されることが予想されるのに……。
「しょうがないから、お母さんその日の朝から東京に行くわ。いや、それだと早くて大変だから、前の日から泊まり込みかな」
「……ごめん」
「いいよ。本当は対局の日、お昼から同窓会があるんだよねえ。けっこう楽しみにしてたんだけど、キャンセルしておくわ」
「そうなの? だったら、悪いよ! いいよ、どうにかして一人でやるよ」
「いや、無理でしょ~。やっぱり誰かに手伝ってもらわないと……。興津先生や諏訪先生は?」
「その日は二人も対局やイベントがあるんだ」
「あら。じゃあ、やっぱりお母さんが行くしか……」
と、母が言ったとき、病室のドアがノックされた。「はい」と元気が返事するとドアが開き、
「こんにちは~。あ、お母さんもいらしてたんですね」
松井直がいつものようにやってきた。
「松井さん、いいところへ来てくれたわね」
「え?」
母の言葉に、直はきょとんとした。
「なんだ、そんなことぐらいだったら私、お手伝いしますよ!」
「本当? 助かるわぁ~」
快諾する直の様子を見て、母は喜んでいる。
二人はファーストコンタクトこそ微妙な雰囲気だったが、この一週間余り病院で顔を合わせるうちに、いつの間にか仲良くなっていた。元気が将棋の研究をしている間、何やら楽しそうに雑談しているし、母(と元気)のために直は勤務するパン屋の商品である菓子パンを持ってきてくれたこともあった。
……いや、そんなことは今はどうでもいい。
「松井さんがそんなこと、僕の着替えなんて手伝っていただかなくてもいいですよ! 悪いですよ!」
元気は話をどんどん進めていく二人に抗議した。
「……私は全然構わないんですけど」
「ほら元気、松井さんもそう言ってくれてるし」
「僕が恥ずかしいんだよっ」
直が自分のマンションに一人だけで入ってきて、着替えを手伝ってくれる。それは遠慮したい。別に嫌というわけではない。ただただ、恥ずかしい。相手が同世代の女性だからか、それとも直だからなのかは元気にもわからない。
「別にすっぽんぽんを見られるわけじゃないんだからさ」
「すっ……」
母に言われ、元気は言葉を失った。
「あはは。それに私のほうは、男子の裸や着替えは見慣れてますから」
「えっ」
「えっ……」
直の台詞で、今度は母と元気が言葉を失った。その様子を見た直は慌てて、
「あっ、違う! 変な意味ではなくてですね! サッカー! サッカーの話です! 中学まで男子に混じってサッカーをしてたので、もちろん更衣室は別でしたけど、裸を見ることはあったり、ちょっとした接触プレーなんかはあったり、そういうことで! あと、同じようにサッカーやってる兄もいましたから! お風呂上がりにパンツ一丁でうろうろするのを子どものころから見てたので、そういう意味、そういう意味です!」
赤面しながら、早口で弁解してきた。
「そ、そうなの?」
「はい……」
母の合いの手で落ち着いたのか、直は椅子に座り込んだまま下を向いてしまった。まだ顔が赤い。が、すぐに顔を上げて、元気を見つめてきた。元気はぎょっとしたが、直は気にせず、
「高森先生は恥ずかしいかもしれませんけど、私は気にしませんから、本当に。もしお母さんが手伝うとなったら、また仙台から東京まで往復のお金がかかるわけでしょう? 大変じゃないですか。だったら、私にお手伝いさせてください」
太い眉毛が困ったように傾いている。元気は観念して目を閉じた。
(ああ、また僕は流されている……)
「わかりました、お願いします」
「はいっ!」
直の明るい返事を聞きながら、元気は対局相手の顔を思い浮かべた。
こんなんで勝てるのだろうか。前回の手痛い敗北から続けて戦うことになる、あの赤崎九段に。
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