被害者と加害者(2)

 翌日の午後、松井直は元気の病室のドアをノックして数秒待った。……返事がない。

(寝てるのかな? ま、いっか)

「こんにちは~」

 そう言いながら、直はゆっくりとドアを開けて病室に入った。

 ベッドの上に、元気はいた。だが、寝ているわけではない。ギプスを着けたままであぐらをかき、ベッドの上に置いた何かを一心に見つめている。よく見ると、小さな将棋盤だった。集中するあまり、直に気が付いていないのか。

(これが、プロ棋士)

 邪魔をするのも悪いという遠慮と、集中している姿を見ていたいという興味。直はしばらく元気に声をかけず、立ったまま観察することにした。

 一分ほど見ていると、元気が左手で駒を動かした。パチン、とかすかな音がする。もういいかな、と思い直はベッドの脇に置かれた椅子に座った。さすがに気が付いたのか、元気が直を横目で見て、

「……松井さん!?」

あわてて声をあげた。

「こんにちは。全然気が付かないんですか?」

「ええ、まあ」

「それだけ没頭しているってことなんですね……。お邪魔したようだったら、すいません」

「いえ、そんなことは」

「約束通り、やってきました。何かお手伝いできることがあれば、言ってください!」

 直は張り切って言った。怪我をさせてしまった相手への贖罪の気持ちはもちろんある。一方で、自分と同い年の将棋棋士という凄い人の役に立ちたい、という思いがあった。

 が、元気の反応は期待したものではなかった。困った顔をして、考え込んでいる。

「いやあ、何かしてもらうと言われても、特に思い付かなくてですね……」

「本当に何でもいいですよ。お洗濯とか!」

「それは悪いですよ。あと、今日母がやってきますから、そっちにお願いしようかと」

「じゃあ、飲み物とか雑誌とか、何か欲しいものがあれば売店まで買いに行ってきますよ!」

「それなんですけどね」

 元気がもっと困った顔になる。

「僕、骨折してるの右腕だけじゃないですか。右腕はもちろん動かせないんですが、他はまったく健康なわけで。ベッドにずっと寝ていると筋力が低下して、むしろ骨にも良くないらしいんですよ。売店に行くくらいは散歩がてら自分で行こうと思っていてですね」

「あっ……」

 そう言われれば、そうだ。自分も怪我で入院したことがあるのに、全く考えていなかった。

「……ごめんなさい。あたし、バカですね。変にやる気出しちゃって」

 直は自分が空回りしていることを自覚した。ただでさえ迷惑をかけているのに、さらに困らせてどうする!

「ああっ、ええと、ええとですね」

 元気は落ち込んだ直を見てあたふたしていたが、

「じゃあ、散歩がてらに一緒に売店に行きましょう! ちょうど実験してみたいことがあったんです」

「……実験?」

 予想外の単語が出てきたので、直は目をぱちくりさせた。


 一緒に売店に行って購入したのは、ごく普通のペットボトル入り飲料水だった。二人は談話スペースに向き合って座り、元気はペットボトルを机に置いた。

「あの、実験って?」

「ええ、この開栓前のペットボトルなんですけどね。これを左手だけで開けられるか確かめたくて。一度開栓したものは開けることができたんですけど」

 直の問いに、元気が流暢に答える。

「約二週間後に将棋の対局があるんです。前日には退院できそうなんですが、ギプスは着けたままになります。対局は長時間に及ぶので、水分補給が必要なんですね。いつもはペットボトルを二~三本用意していくんですが、この状態で開けられるのかな~、と思って」

「なるほど……」

「やってみます」

 そう言って、元気は左手だけでペットボトルを開栓しようとする。中指、薬指、小指でボトルを掴み、親指と人差し指だけで栓を回そうとするが、

「……ダメですね」

 気が抜けたような声を出した。

「あたしもやってみていいですか」

「どうぞ」

 直も挑戦してみるが、やはり左手だけで開栓することはできなかった。

「ほんとだ。じゃあ、対局のときはどうするんですか?」

「そうですね……。あらかじめ誰かに一度開栓してもらったものを持って行くのが無難でしょうか。記録係の人にわざわざ開栓してもらうのも悪い気がしますし」

「うーん」

 直はテレビのニュースで見た将棋の対局の様子を思い出す。高校生棋士・井澤史郎しろう七段の対局が深夜まで及ぶのは見たことがある。確かに水分補給は必須だろう。直はふと思い付いたことを口にしてみた。

「あの、別にペットボトルじゃなくてもよくないですか?」

「え? ええ、それはまあ確かに」

「ストロー付きのドリンクボトルなんか、いいんじゃないですか。左手でペットボトル開けるよりも、よっぽど飲みやすいはずですよ!」

「なるほど。いいかもしれませんね」

「あたし、買ってきますよ」

「いや、悪いですよ」

「いえいえ、それくらいさせてください!」

 やっと元気の役に立てそうだ。直はテンションが上がるのを自覚した。

「……じゃあ、お願いします」

「了解しました!」

 元気の返事を聞くと直は椅子から立ち上がり、彼の隣の席に移動して座った。そして自らのスマートフォンを操作し『ストロー付きドリンクボトル』で検索した画面を元気に見せる。

「こんな感じの、スポーツで使うタイプのでいいんじゃないですか。剣道の面をかぶってるときなんかに便利って書いてますね」

「は、はあ」

 気が付くと、お互いがかなり接近している。元気が緊張しているのがわかった。

 ……薄々感じてはいたが、元気は女性に慣れていないのだろう。かなり男っぽい(と自覚している)直に対してもこうなのだから、今後大丈夫なのかな、この人。

 直はそんな心配を表に出さないようにしつつ、

「じゃあ、今日この後、ちょっとお店見てきますね。いいのが無かったら、ネットで注文します。二週間あれば、大丈夫だと思いますし」

「ええ、お願いします」

「せっかくですし、連絡先も交換しませんか」

「えっ!」

 元気が素っ頓狂な声をあげた。

「その方が何かと便利だと思いますし」

「そうか、そうですよね」

 そんな動揺しなくてもいいのに……と思いつつ、直は元気と連絡先を交換した。

「じゃあ、あたしはお店を見てきますね」

 直がそう言って席を立とうとしたときだった。

「元気!」

 背後から女性の声が聞こえたので、直と元気は顔を上げてそちらを見た。

 五〇歳前後に見える、眼鏡をかけた女性が立っている。

「母さん」

 元気の言葉で、直はすぐに二人の関係を理解した。

「病室に行ってもいないから、どこにいるのかな、と思ったら……」

「ああ、ごめん」

「あら、そちらの人は……? ああ、ごめん! そうよね、聞くだけ野暮ってものね! 元気も東京で二年近く暮らしているものね! そういう人もいるわよね! どうしよう、お母さん先に病室で戻っていましょうか?」

「ちょ、ちょ、違う違う! この人はそうじゃないって!」

 母親の早とちりを元気があわてて否定する。

「あら、そうなの? じゃあどういったご関係で」

「ええっと……」

 口ごもる元気を見て、直は椅子から立ち上がった。

「すいません、お母さん。私、松井と言います。私は、高森先生の……」

 そこまで言って、直もまた口ごもってしまった。直と元気の関係を一言で表現するとなると、つまり、どういうことになるのか。

「か……」

「か?」

「加害者、です」

 猛烈に気まずさを感じながら、直は言った。


「で、その後はどうしたんだ?」

「正直に全部話して、ちゃんと謝ったよ。高森先生、腕相撲で骨折したことまではお母さんに話してたみたいだけど、相手が女だとは言ってなかったみたいでさ。お母さんも驚いてたよ。怒られはしなかったけど、すごく微妙な雰囲気になった」

「そりゃそうよねえ。あたしだって、もしはじめが骨を折った女の子とイチャイチャしてたら、イラッとするもの」

「そういうもんだよね……。ていうか、別にイチャイチャはしてないから!」

 病院を出て、ドリンクボトルを店で見かけて購入した後、直は帰宅した。今は両親とともに夕食を食べながら、病院での出来事を話しているところである。

 一というのは直の一歳上の兄のことだ。現在は名古屋の大学に通っている。

「とにかく、明日も午後から病院に行ってくるよ。ドリンクボトル渡してくる。他に何ができるかわからないけど」

「まあ、話し相手になってあげるだけでもいいんじゃない?」

「そうだよね……」

 母の言葉で、直は自分が入院していたときのことを思い出す。体は動かせないし、誰かが来てくれないと暇で暇で仕方が無かったものだ。友人が見舞いに来てくれるのがありがたかった。

「でも、高森さんは普通の人じゃないんだ。将棋の棋士なわけだろ。しかも退院したらすぐに対局なわけだ。入院中も一人で集中して勉強したいときがあるんじゃないか」

「ああ、そうかも……」

 病室で将棋盤に向かって考えこんでいた元気の姿を思い出すと、父の言葉にも一理ある気がする。

「うーん、わからん! なんにせよ、誠意をもって毎日病院に行く! そんで邪魔だけはしない! それしかないよね」

「ああ」

「そうね」

 直の出した単純な結論に、両親は微笑を浮かべてうなずいた。


 明日は病院へドリンクボトルを持って行く旨のメッセージを元気に送った後、直は風呂に入った。湯船に浸かりながら、元気のことを考える。

(お風呂にも自由に入れないんだもんな……大変だよね)

 つくづく、申し訳ないと思う。


 元気の骨を折った直後は、泣いてしまった。救急車で元気が搬送され、仕方なく帰宅して両親に経緯を話し、こっぴどく叱られた後は、ほとんど一睡もできなかった。

 眠れそうになかったので、その夜はスマートフォンで高森元気七段のことを調べた。将棋の専門用語はよくわからなかったが、それでも凄い人物であることは理解できた。

 高校生でプロデビュー。斯波九段との対戦成績が二勝二敗。井澤七段とは二度対戦して負け無し。井澤七段の前に立ち塞がる最大の壁、と評している記事もあった。

 そんな、自分と同い年にしてすさまじい活躍をしている人を、怪我させてしまった。自分だって怪我で辛い思いをしたのに、なんてことを……。直の中に罪悪感が後から後から湧いてきたのだった。


 直が風呂から出てスマートフォンを確認すると、元気からの返信が届いていた。

『ありがとうございます。お待ちしています』

 シンプルだ。まあ、嫌われてはいないはず……。

 ベッドに横になり、SNS上で『高森元気』『高森七段』というキーワードで検索してみる。入院していることが話題になっていないかと思ったからだ。

 入院していることは公表されていないようだった。だが、出席が予定されていたイベントの欠席は発表されたようで、

『高森七段が欠席? 何かあったのかな』

『えー高森くん来ないの? どうしよう』

 などとファンが反応していた。

 そう、ファンがいるのである。それも若い女性と思われるファンが。スポーツ選手でも若く実力がある選手には熱心なファンがつくことを思えば、当然かもしれない。

(リスとかハムスターっぽい小動物的なかわいさもあるもんね……)

 ……なんだかもやもやする。寝よう、とりあえず。

 直は考えることを止め、布団の中に潜りこむ。元気の腕を折ってしまった夜とは違い、翌朝を迎えるのを嫌とは感じていなかった。

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