被害者と加害者(1)
その後の元気の記憶は断片的だ。
騒然とする居酒屋『たつみ』。
慌てて救急車を呼ぶ諏訪の声。
「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も謝る松井直の泣き顔。
鈍く重い腕の痛み。
数分後に駆け込んできた救急隊員。
初めて担架に乗せられ、救急車で病院まで運ばれた。軽く診察された後、腕を固定されて病室のベッドに寝かされ、点滴を打つ。手術は翌日になると医者から説明を受け、ある程度落ち着くと、元気は不安を覚えた。
手術をした後も、二週間程度は入院が必要だという。次の対局はちょうど二週間後だ。どうにか前日には退院しなくてはいけない。そして退院しても、二~三ヶ月はギプスが外せないらしい。その間ずっと、利き腕にギプスをして将棋を指すことになる。対局の無い日の研究や日常生活も不便だろう。どうなる、どうすればいい、これから……。
しばらくそんなことを暗闇の中で悶々と考えていた。が、何の意味も無いと気が付く。だったら次の対局に備えたほうがよっぽどましだ、と元気は切り換えた。頭の中で駒を動かし、予想される局面を検討していると、いつの間にか眠りに落ちていた。
「連盟には連絡しておいたからな。イベントが一つと、解説が二回だっけ? 誰かが代わりに行ってくれるだろ」
「ありがとうございます」
ベッド脇の椅子に座った諏訪が明るく言う。元気はと言えば、病衣を着て、腕を固定されたままベッドに横になっている。
午後、無事に手術を終えて元気が病室に戻った後、諏訪がやってきた。腕相撲をけしかけた責任を感じているのか、右手を使えない元気に代わって各所への連絡を買って出てくれているのだ。
「親御さんにも連絡したよ」
「手術前に母から電話がありましたよ。日頃運動してないからだ、と怒られました。明日、仙台から出てくるそうです。僕も大人だし、別に命に関わるわけじゃないんだから、言わなくてもいいのに……」
「黙ってても、退院後にギプス着けて対局してたら話題になってバレるだろうがよ。なんで言わなかったんだ! ってなるじゃないか」
「まあね……」
それはそれで面倒くさいことになりそうだ、と元気は思った。
「師匠は? なにかおっしゃってましたか?」
「ああ。女の子に腕折られたって言ったら、もう大爆笑」
「ええ……」
「近いうちにお見舞いに来ると思うよ」
これは、いじり倒されそうだ。元気は憂鬱になった。
「他は? なにかしてほしいことはないか? 持ってきてほしいものとか」
「じゃあ、お言葉に甘えてもいいですか。僕のマンションからいろいろ持ってきてもらえたらありがたいです。明日母が来たらそっちにも頼むんですが、将棋の細かいことは母はわからないから……。暗証番号は教えますし、カードキーも渡しますから」
「いいのかよ」
「信頼してますよ、さすがに」
約一〇年の付き合いがある兄弟子なのである。普段口には出さないが、元気は諏訪を実の兄のように感じていた。諏訪は「そりゃどうも」と言うとニヤリとして、
「部屋の鍵までもらっちゃって、付き合ってるみたいだな俺たち」
「気持ち悪いこと言わないでくださいよー!」
やや大きい声でつっこんだ元気に対して諏訪は動じず、
「元ちゃんにかわいい彼女でもいれば、こういう世話もやってくれるんだろうなってことだよ」
「……いませんよ、そんなの」
「知ってる。元ちゃんよ、将棋もいいけど、そっち方面にそろそろ興味持ってもいいんじゃないか」
「……」
急に苦手な話題になったので元気が言葉に詰まったとき、病室のドアをノックする音が聞こえた。「はい」と元気が返事をすると、
「失礼します」
と言う声とともに、松井直がドアを開けて入ってきた。今日はポニーテールではなく、ウェーブがかった長い髪を下ろしている。その表情から、緊張しているのが見て取れる。
そして松井直に続いて、中年の男女が神妙な顔をして入ってくる。両親だろうな、とすぐに予想できた。
「高森先生、大変ご迷惑をおかけしました。本当に、申し訳ございませんでした!」
松井直に勢いよく頭を下げられ、元気はひるんだ。おまけに、両親も申し訳なさそうに深々と頭を下げてきた。
別に松井直に対して怒ってもいないのに困っちゃうな、と思う。
「あの、とりあえず部屋の外に談話スペースがありますので、そちらに行きませんか。ここ相部屋ですし……」
同室の男性患者にも配慮し、元気は言った。
元気、松井直、その両親、そして諏訪も加えた五人で談話スペースに移動した。席に座ると、再び松井直たちに何度も頭を下げられ、高級な菓子らしき手土産を渡され、と経験の無いことが続き、元気は戸惑った。
松井直の父親は商店街のパン屋を経営しているという。彼女が働いていると自己紹介で言っていた店もそこだ。つまり親の手伝いをしているわけだ、松井直は。
父親は背が高く、実直そうな男性だった。母親は娘と同じように眉毛がやや太く、顔つきも似ている。松井直も両親も真摯な態度であり、元気も落ち着いてくると彼らに好感を抱いたくらいだった。
「本当に、そこまで謝っていただく必要は無いですよ。一方的に暴力を振るわれたわけじゃないんですから。お互い様というか、たまたま僕が虚弱だったからというか。全然怒ったりしていませんから、本当に……」
元気は正直な気持ちを口に出した。
「どっちかと言えば、この諏訪さんが酔っ払って腕相撲をけしかけたせいだと思ってるくらいで……」
「うぉい! まあその通りだよ、ごめんね!」
「だから、誰に責任があるとか、そんなことではないと思っていますから、あまり気にしないでいただければ、と」
諏訪の反応を無視して、元気は言った。だいたい、元気は腕相撲を断ることもできたのだ。……松井直の手を触れるという気持ちがあった自分も悪い。
「ありがとうございます、高森先生。ですが、実際問題として治療費がかかるわけですよね。私どもでお支払いさせていただければと思うのですが……」
松井直の父親の申し出に、元気はあわてた。
「いやいや、そんなのけっこうですから!」
「いやいや、そういうわけにも!」
「いやいや、本当にかまいません!」
「いやいや!」
「いやいや! ……本当に、本当に大丈夫ですから」
元気がゆっくりと落ち着かせるように言うと、松井直の父親も「……わかりました。申し訳ありません」と納得してくれた。治療費についても、元気はもともと自分で支払うつもりだったのだ。
「……あの、高森先生」
松井直が申し訳なさそうな顔で呼ぶので元気が「はい」とそちらを見ると、
「治療費については、ありがとうございます。でも、それだとやっぱりあたし、申し訳ないです。入院されている間、棋士のお仕事ができないわけですよね。退院しても、きっと当分の間はご不便だと思います。利き腕が折れちゃったわけだから、駒を持つのも大変じゃないかと。日常生活だって……」
「それは、まあ確かに」
左腕一本での生活がどうなるのか、想像するだけでも不便そうだとは思っていた。
「あたし、何でもします!」
「え?」
「毎日病院に来ますから、何でも言って下さい。身の回りの世話でも、何でも! 退院してからも何かあればお手伝いします!」
「いや、そういうわけにもいきませんよ! お仕事もあるでしょうし」
「仕事と言っても父のお店ですから、なんとかなります! 別に一日中抜けるわけでもありませんし。いいでしょ?」
そう言って松井直が父親の方を見ると、
「……ああ。先生の生活の方が大事だ」
夫の言葉を聞き、松井直の母親もうなずいている。松井直は再び元気に向き直り、
「どうでしょうか、高森先生」
身を乗り出し、元気の目をまっすぐ見て問いかけてきた。大きな瞳がわずかに潤んでいる。もはや元気に選択肢は残されていなかった。
「そ、それじゃあ、お願いします……」
松井直から目を逸らしつつ元気が答えると、
「はいっ!」
彼女の表情はくるっと変わり、花が咲いたような笑顔になった。
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