棋士とアスリート(3)
元気は尊敬する大棋士の少年時代のエピソードを思い出していた。
彼は将棋を覚えて瞬く間に強くなっていった。自宅では家族を相手に将棋を指すわけだが、もはや相手にならず、すぐに勝敗が決する局面になってしまう。するとそこで将棋盤をひっくり返し、圧倒的に不利な局面から逆転するため指し始めたのだという……。
それと同じことを、松井直はフットサルで実行しようとしているわけだ。
結局、松井直と興津みちるがトレードされることになり、『たつみ』常連チームはハーフタイムに松井直を含めて後半に向けての打ち合わせをしていた。
「改めまして、松井です。皆さん、よろしくお願いします。点差は開いていますが、がんばっていきましょうっ!」
明るく挨拶する松井直に引っ張られるように、諏訪たちが「おおっ!」と力強く声をあげる。元気はといえば疲れ果て、そんな気力は残されていなかった。ただでさえ運動不足気味なうえ長時間対局の疲れが残っているところで、このフットサルだ。一〇分以上松井直に振り回され、死にかけている。
「……元ちゃん、しんどそうだな」
諏訪が心配そうな顔で声をかけてきた。
「後半はメンバーから外れるか。しばらく休んで、行けそうなら入ればいいよ。無理はしなくていいから」
「ええ、そうさせてもらえれば……」
元気が諏訪の言葉に甘えようとしたときだった。
「ダメ」
松井直が突如として会話に入ってきた。
「バテてるかもしれないけど、君には……ええと……」
「高森です」
「高森くんには、後半もちゃんと試合に出てもらいます」
「ええ……」
「ゴレイロなら、そこまで走り回るわけでもないし、いけるって!」
「ど、どうして僕にそんな……」
「どうしても!」
笑顔で無茶振りしてくる松井直が悪魔に見えた。
ゴレイロとは、サッカーでいうゴールキーパーのことである。結局元気は松井直の提案に従い、後半のコートにゴレイロとして入ることになった。前半にゴレイロを努めていた選手から借りたフットサル用グローブを手に装着し、ゴール前に立つ。
確かにゴレイロであればそこまで走り回る必要は無く、体力を消耗している元気でも務まるかもしれない。
(だからって、気は休まらないけどね……)
なんといっても相手のシュートを防がないといけない。反射神経も良いとは思えない自分に務まるか、元気は不安になった。
だが、それは杞憂に終わりそうだった。松井直の活躍で、『たつみ』常連チームがほとんど攻めてばかりだからである。後半開始後五分程度で、松井直は自らのシュートで一点取り、諏訪へのアシストで一点を演出した。これで五対三。
(凄いな……)
元気は羨望の眼差しを松井直に向けた。彼女はサッカー経験者らしいが、ちょっと部活に入っていた、程度ではないように思える。素人の元気が見ても、もっと上のレベルのような気がする……。
そんなことを考えていると、相手選手がやや離れた位置からループシュートを放ってくるのが見えた。
「げっ!」
なんでもいいから止めなければ! 元気は必死にジャンプし、放物線を描いてゴールへと向かうボールを拳でどうにか弾いた。軌道が変わり、ボールはタッチラインを割ろうとする。
なんとか無事に着地した元気がボールの行方を確認すると、ラインすれすれの位置で松井直がしっかりと確保していた。いつの間にあんなところにいたのか。
「ナイス!」
そう言って、元気に微笑みかけてくる。
「ど、どうも」
「よし、じゃあ攻めようか一緒に」
「へ?」
「あたしが攻め上がるから、君もこのまま敵陣に突っ込んで」
「でもそれじゃゴールががら空きに……」
「フットサルはゴレイロが攻撃参加するのはよくあることなの」
そう言いながら松井直はボールを奪いにきた選手をかわし、宣言通りに攻め上がる。元気はわずかに悩んだ。が、将棋でも玉が敵陣に入ることがあると気が付いて納得すると、松井直と一定の距離を保ったままコート中央を駆け上がった。少しは回復したし、とことん松井直の言葉に乗せられてみるのも悪くないと思ったのだ。
敵陣に入り、ライン際までボールを運んできた松井直を見る。目が合った。その瞬間、松井直が大きくボールを蹴り上げる。ボールが元気の右前方へと落ちてきた。ゴールを狙え、とボールが言っているのがわかる。元気がその声に従って無心で蹴ると、ボールはまっすぐ飛び、相手チームのゴレイロが伸ばした手を越え、ネットを揺らした。
「おおー!」
諏訪の歓声が聞こえてきた。元気はしばらく動けなかった。自分が思いのほか感動していることに気が付く。
小学校、中学校、高校と、体育の授業やクラスマッチでサッカーをさせられたことはあったが、自らシュートを決めたことなんてあっただろうか。もしかして人生で初めての経験なのでは……。
「ナイッシュー!」
「わっ」
背後から声をかけられ、元気は驚き振り向いた。松井直がニコニコしてこちらを見ている。
「お見事でした」
「いや、パスが良かっただけで……」
「ははは、もちろんそれもあるけどね。けど、決めたのは君だから」
それだけ言って、松井直は駆け足で自陣に戻ろうとする。元気も再びゴールの守りにつくため、松井直についていく。だが、元気には松井直に聞いておきたいことがあった。
「松井さん!」
元気が呼ぶと、松井直が振り返る。
「はい?」
「あの、どうして、どうして僕にゴレイロやらせたり、攻撃参加させたり、パスを出してくれたり、かまってくれるんですか」
客観的に見ても、元気はチームの誰よりもへたくそなのに。
「そりゃ、楽しくなさそうだったからだよ」
「えっ?」
戸惑う元気に、松井直が苦笑しながら答える。
「他の人はみんな楽しそうなのに、君だけつまらなさそうだったから。だから、楽しんでほしくなったんだよ。フットサル苦手かもしれないけど、来たからには、みんなに楽しくなってほしいじゃない。ね?」
「……はい」
あんなすごいプレーをしながら、意外と周囲を見ているのだ、彼女は。元気はシンプルな返事をすることしかできなかった。
その後、両チームが一点ずつ取り合い、試合は六対五で堀川商店街チームの勝利に終わった。
「えっ! あたしと同い年、なんですか! 大学生なんですか?」
「いえ、将棋の棋士をしています」
「棋士っ! えっ、プロの?
「ええ、まあ」
やはり将棋のプロ棋士と言って普通の人が知っているのはその二人くらいだよな、と思いつつ元気は松井直に答えた。
「すごい! じゃあ、同い年でも先生と呼ばなきゃですね!」
「それは別にどちらでも……」
無邪気に笑って言う松井直の言葉に、元気は複雑だった。急に元気に対して敬語を使い始めた。薄々感じていたことだが、フットサルをしている際にタメ口だったのは、元気を高校生くらいと思っていたからなのだろう。童顔だという自覚はある。
試合後、元気たちは堀川商店街に行き居酒屋『たつみ』で打ち上げをしている。一時間ほど経ち、酔いが回った参加者たちは好き勝手に席を移動し始めたが、元気は当初の席に着いたままビールを飲んでいた。そこへ松井直が「君、ビール飲んじゃっていいの!?」と驚きながら元気の向かいの席に座ってきたのだった。
フットサル用のパーカーから着替えた松井直は、また別の白いパーカーにジーンズという動きやすそうな格好をしていた。酒が入っているからか、やや顔が赤い。
もっとも、それは元気も同じだ。ビール三杯で随分と酔いが回っているのが自分でもわかる。
「プロか……プロかぁ。想像もつかないですけど、きっと大変なんでしょうねぇ」
「ええと、大変は大変かもしれませんが、好きな将棋をして生活できているのだから、ありがたいと思っていますよ」
「好きなことで生活かぁ」
松井直の表情がどこか寂しそうに見えたとき、
「元ちゃん、やってるかー!」
「お、松井さんと仲良くしちゃってこの野郎!」
そう言いながら酔っ払ったみちると諏訪が近付いてくる。二人はそれぞれ元気の両隣の席に座ってきた。酒臭い。
「今、高森さんがプロの棋士だって聞いたところです」
松井直がそう言うと、
「お、言っちゃったかー! まあ俺もみちるさんもプロなんだけどね!」
「そうなんですか!」
諏訪の言葉に松井直が驚く。
「そうそう。でも、実力はこの元ちゃんは俺なんかよりずっと上だから。若いのに凄いんだから、本当に!」
芝居がかった口調で諏訪が言う。普段はこんなことを言わない先輩なので、元気は戸惑ってしまう。
「俺のほうが早くプロになったのに、あっという間にB級1組まで駆け上がっていっちゃってよう。俺はやっとC級1組へ昇級したってのによう……」
「B級C級ってなんですか?」
遠慮がちに松井直が言うので「元ちゃん、説明してあげて」とみちるに促されて、元気は口を開いた。
「ええと、簡単に言えば、ほとんどの棋士はプロ入り直後C級2組というクラスに所属するわけです。そこで一年間戦って上位の成績を残せばC級1組に昇級、同じようにB級2組、B級1組、A級とピラミッド型になっていて、A級で一位になった棋士が名人に挑戦できる、という仕組みになっています。下位の成績だと降級することもあったり」
「ははあ、JリーグもJ1、J2、J3がありますけど、そんな感じですか」
「そういうことです!」
松井直のサッカーを利用した理解の早さに、元気は素直に感心した。
「今年度の元ちゃんは凄かったじゃねーか。三つのタイトルで
「あんた絡むのやめなよ。そんなの元ちゃんが一番わかってるんだから」
ぐだぐだとつぶやく諏訪を、みちるが注意する。そう、みちるの言うとおり、元気はよくわかっている。自分のここ一番という勝負での弱さを。
「『ちょうけつ』ってなんですか?」
また松井直がたずねてくると、今度はみちるが解説する。
「挑戦者決定戦のことだよ。ええと、ざっくりいえば、プロ棋士は年間通して、いろんな棋戦を並行して戦っているんだよね。その中でも八大タイトルと呼ばれるものが大きいわけだ。名人とか竜王とかね」
「ああ、高校サッカーでもインターハイと選手権と高円宮杯が一年間で行われますけど、そんな感じですね!」
「そう! さっきからすごい松井さん! サッカーで例えるとわかりやすいのかな」
「へへへ」
みちるに褒められ、松井直が照れている。かわいい、と元気は単純に思った。
「それで僕は今年度、タイトルへの挑戦者を決める決定戦に三度進出したんですが、ことごとく負けてしまったんです」
「あら……」
松井直が心から残念そうな顔をする。
「諏訪さんの言う通りで、どうも僕は大一番に弱いみたいなんですよね、昔から。なんとしても勝つという気持ちが足りないのか、なんなのか……」
酔っているからか、ぽろっと本音が漏れてしまう。
小学生名人戦は優勝候補に挙げられながら、結局優勝することはなかった。奨励会に入ってからは、五人目の中学生棋士となることを周囲に期待されたが、間に合わなかった。プロになってからはタイトル挑戦まで進出できず、一般棋戦でも決勝まで進みながら優勝はできていない。順位戦もA級への昇級を赤崎九段に阻まれた。
プロでも上位の実力はあるはずだ。できる限りの努力はしている。それでも何かが足りないのではないか。そしてこのまま、無冠で終わってしまうのではないか。
今年度三度目の挑戦者決定戦で敗れてから、そんな不安が時折、元気の頭の中を支配する。
「そうだ元ちゃん、お前には勝ちたいという思いが、勝負師としての気持ちが足りないんだぁーッ!」
急に諏訪が大きな声を出すので、元気たちはびっくりした。
「だから元ちゃん、今ここでなにか勝負しよう、そうだ腕相撲しよう!」
「な、なんでそうなるんです! 誰と!」
「ええ~? 松井さんとすればいいんじゃない」
「はぁっ?」
むちゃくちゃだ、と元気は思った。
「お前、昼間の松井さんのプレーを見ただろう。松井さんは凄い。テクニックも凄いが、負けてるチームに入って、自分の力で勝たせてやるって気持ちが凄い!」
「それはまあ、確かに」
「そんな松井さんにフットサルで勝てとは言わん。だが腕相撲なら勝てる! 元ちゃんだって男なんだ。男の力を見せてみろーッ!」
諏訪はこんなにダメな酔い方をするタイプだったのかと呆れつつ、元気は松井直を見た。
「こんなこと言ってますけど、腕相撲やりませんよね?」
「あたしはやってもいいですよ、腕相撲」
「えっ」
松井直の反応に元気は驚いた。
「いや~、男だから当然女より強い、と思われると、ちょっと納得いかないというか」
そう言いながら笑顔で腕まくりする。決して太くないが引き締まった腕が見えた。
(なんか心が燃え上がっている!)
どうするべきか元気は迷ったが、
「……じゃあ、やりましょうか」
もはや流れは止められないと判断した。
「それでこそ男だ元ちゃん!」
「とか言って松井さんの手が握れるから嬉しいんじゃないの元ちゃん」
「それは別に関係ないですって」
みちるの冷やかしを否定はしたが、図星だった。そういう気持ちがあることは自分でもわかる。
取り皿やグラスを動かしてテーブルの上にスペースを作ると、元気と松井直は肘をつき、右手を握り合った。昼間もそうだったが、やはり暖かい。
(違う! とりあえず、やるからには勝つ!)
松井直は真剣な目をしている。余計なことを考えている場合ではない、と元気は思い直した。
「じゃあ始めるよ。レディー、ゴー!」
みちるの合図で腕相撲が始まった。元気は思い切り腕に力を込めた。が、松井直はビクともしない。
(つ、強っ!)
もうこの段階で、自分は勝てないことを元気は悟った。やはり日頃の鍛え方が違うのだ。フットサルだけでなく、筋トレなどにも取り組んでいるのではないか、松井直は。
「いきますよぉ。んーーー!」
「だああぁぁぁ」
最初は抑えていたと思われる力を、彼女が出してくる。元気は必死に抵抗しようとした。つい声が出る。
「んぎぎぎぎぎ」
負けるにしても、あっさりと負けてたまるか。そう思い、これまで以上に腕に力を込めた瞬間だった。
バキッ、という音がした、ような気がした。本当にそんな音がしたのかどうかはわからない。そして急速に力が抜け、元気の腕はテーブルの上に倒された。
「ああああぁぁぁああああぁぁ」
元気はたまらず悲鳴をあげた。松井直も、みちるも、諏訪も、すぐに元気の異変に気が付いたようだ。呆然とした表情で元気を見ている。まだ激烈な痛みがあるというわけではない。だが、自分の体のことだ。自分でわかる。
元気は一気に酔いが覚め、血の気が引くのを感じながら、震える声で言った。
「た、た、たぶん今ので、腕の骨が折れてます……!」
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