棋士とアスリート(2)
「お、意外とサマになってるじゃん、元ちゃん」
シャツの上にオレンジ色のビブスを着ると、諏訪が声をかけてきた。
「そりゃどうも」
返事をしながら、元気は諏訪を見た。一八〇センチの諏訪こそ、上半身にシャツ、下半身にジャージという同じ格好をしていても、一見してスポーツ選手のような印象を受ける。体育の授業を受ける高校生といった雰囲気の元気とは違う。
諏訪隼人六段は現在二六歳。爽やかな容姿に明るく気さくな性格で人気の棋士である。子どものころから世話になっている元気にとっては、本当の兄のように頼れる存在だ。一方で、やや線が細く、控え目な性格……もっと言えば暗いことを自覚している元気は、自分と正反対の諏訪に引け目を感じることもある。
更衣室で一緒に着替える他のメンバーは諏訪の大学時代の友人とのことで、皆なんとなく諏訪と似た雰囲気があった。明るく楽しく、にぎやかだ。
(我ながら浮いてるな。試合が始まったらもっと浮くんだろうけど)
憂鬱な気分で元気は更衣室から外へ出た。
諏訪たちから電話があった翌日の昼過ぎ、元気は嫌々ながら都内某所にある屋内フットサルコートに来ている。これから夜まで、時間を無駄にするわけだ……しかも恥をかくのはわかっている……と、どうしてもネガティブに考えがちになってしまう。いやいや、日頃の運動不足を解消できると思えば、無駄ではない、はずだ。元気はそう自分にむりやり言い聞かせ、マンションを出てきたのだった。
「おっそーい!」
元気たちがコートに出るやいなや、興津みちるの声が響いた。対戦するチームのメンバーである男性たちの中で、一五〇センチ程度の小柄な女性は目立つ。
「すいませんね、みちるさん。はいこれ、ビブス」
「おう」
諏訪からオレンジ色のビブスを受け取り、興津みちるはいそいそとシャツの上から身に着けた。ショートカットの童顔は、ともすると女子中学生のようにも見える。が、諏訪よりも歳上であることを元気はよく知っている。
興津みちる女流三段は、元気の師匠でもある照井
元気も幼い頃から将棋でも将棋以外のことでも、みちるに厳しく指導されたものだった。おかげで今でも上下関係を意識せざるを得ない。そうめったにない『みちるのお願い』を元気が断れるはずがなかった。
対戦相手は諏訪たちの行きつけの居酒屋がある商店街のチームだという。皆、諏訪の友人たちより一回り程度は歳上に見える。そんな中で、チームメイトと談笑しているただ一人の女性が元気の目を引いた。チームの中でも圧倒的に若い。元気と同世代……二〇歳前後に思えた。
靑いパーカーの上に緑色のビブスを着た女性はかなり身長が高く、元気と同じくらい、つまり一七〇センチ近くある。ウェーブがかった長い黒髪をポニーテールに結んでいる。くりっっとした大きな瞳に意志の強そうな太い眉毛が印象的で、かわいいとか美しいというよりも『凜々しい』という表現がしっくり来る気がした。体格のこともあり、少なくともみちるよりはフットサルが上手そうに見える。いや、姿勢の良さを見ただけでも元気より活躍しそうだ、と思った。
「はい、それでは皆さん準備ができたようですので、これから『たつみ』常連チームと
審判を務める居酒屋店主が言い「お願いしまーす」という返事がコートに響く。
「とにかく楽しく、怪我しないようにしましょう。けど、試合の後にやる打ち上げでは、勝利チームは全員ドリンク一杯無料ってことにしてますから、がんばってください」
『たつみ』店主の言葉におおお、という歓声があがる。
(そうだ、打ち上げがあるんだ)
諏訪とみちる以外に知り合いがいないのに、楽しめるのか。元気はまた憂鬱になるのだった。
その後、全員が簡単に自己紹介を行った。
「諏訪です。『たつみ』さんには大学生の頃からお世話になってます。よろしくお願いします」
「興津と言います。フットサルは何度かやってて、今回も楽しみにしていました。お願いします!」
と、諏訪もみちるも自分たちの職業を口に出さなかったので、元気もそれに倣い、
「高森です。興津さんと諏訪さんの後輩になります。フットサルは初めてになりますが、よろしくお願いします」
と、簡単に自己紹介を済ませた。
相手チームは商店街らしく、自己紹介の後に自分の働く店の宣伝を付け加えていく。蕎麦屋に続いて口を開いたのは、例のポニーテールの女性だった。
「
と、よく通る声で言う。サッカーをやっていたのか。自分とは関わりが無いタイプの女の子だな、と元気は思った。
フットサルの試合は一チーム五人で行われる。『たつみ』常連チームは元気を含めて六人。誰か一人はベンチ要員として待機することになる。
「僕はベンチで見てます。経験無いですし」
元気は率先して先発メンバーから外れることを志願した。
「お前、自分から言う?」
諏訪は呆れたようだったが、
「まあいいけどさ。でも、すぐに入ってもらうからな。フットサルはサッカーと違って選手交代が自由で、何度でも可能なんだ。五人でずっと走り回るなんて体力的に絶対厳しい。だからこそ、元ちゃんを呼んだんだ。頼むよ」
「わかってますよ」
その辺りは事前に諏訪たちから説明を受けていた。フットサルは試合中の選手交代が自由であり、コートから出た選手が再び試合に戻ることもできる。相手チームは総勢一〇人いるが、ずっと試合に入れない、ということはないのだろう。駒台の上に置かれた持ち駒はこんな気持ちなのだろうか、などと考えてしまう。相手チームの様子をうかがうと、松井直もベンチスタートのようだった。
「元ちゃん、わたしの華麗なシュートを目に焼き付けるんだよ」
みちるがそう言って笑い、コートへ歩いていく。
「ええ……」
大丈夫なのだろうか。みちるがスポーツをするイメージはあまり無いが……。
試合が始まると、意外なことに『たつみ』常連チームが押していた。ボールをキープする時間が、明らかに相手チームより長い。動きも総じてスピーディーだった。若さの差なのか。
みちるが実際にかなり活躍していることにも元気は驚いた。ちょこまかとコートを走り回り、攻守に貢献している。サッカーよりもコートがコンパクトな分、小柄なみちるに向いているのか……?
そんなことを考えていると、諏訪のパスを受けたみちるが、「オラァー!」という金切り声とともにボールを蹴り、綺麗に相手ゴールへと突き刺さった。試合開始五分後のことだ。
「ナイスみちるさん!」
「いぇーい!」
みちるは喜びを爆発させ、諏訪とハイタッチしている。二人とも、対局の際は見せることがない表情だ。
やがてみちるは元気の方に顔を向けると、近寄ってきた。
「元ちゃん、見た? 見た?」
「ええ、すごいです。お見事です」
「ふっふーん」
みちるは自慢げな顔をすると、
「じゃあ元ちゃん、交代ね」
「え?」
「わたし疲れちゃったから、しばらく頑張って」
「ええ……もう?」
まあ、仕方ない。元気は立ち上がり、コートへ向かう。
「だめだ、けっこう強いわ! 直ちゃん、交代だ!」
「はいっ」
そんな声が相手チームから聞こえてくる。松井直がポニーテールを揺らしてコートに入ってくるのが見えた。
元気がコートに入ると、さっそくボールが回ってきた。
「ほっ」
おぼつかないながらも、なんとか足元でボールをキープする。ドリブル突破はとてもできない。さて誰にパスするか、と周囲を見回すと、松井直が元気の方へ走り込んで来るのが視界に入った。
「えっ?」
彼女はボールを守る暇も与えてくれなかった。気が付くとボールは奪われ、松井直は元気の後方へ駆けている。振り向いた瞬間に元気の目に映ったのは、ゴールを決める松井直の背中だった。
(……何された、今? もう同点?)
呆然とする『たつみ』常連チームをよそに、
「やったーっ!」
松井直の無邪気な声がコートに響いた。
それからは、松井直の独壇場だった。とにかく上手い。そして速い。元気たちのマークをものともせず、彼女はコートを自在に駆け回った。あっという間に五点を取られて逆転されたのだが、シュートにアシストにと、すべて松井直が得点に絡んでいる。
「参ったね。こりゃもう手合い違いだよ。なあ元ちゃん」
「楽し、そう、ですね、諏訪さん」
ニコニコしながら話しかけてきた諏訪に対し、元気は肩で息をしながら答えた。同じタイミングでコートに入ってきたからか、なんとなく元気が松井直とマッチアップすることが多いのだが、一言で表現すれば子ども扱いされている。レベルが違いすぎるのだ。
「楽しいねえ、あそこまで上手いと、笑えてくる」
「僕は、楽しく、ない、ですよ」
「バテバテだなあ。ま、もうすぐ前半が終わるから。それまで頑張ってくれ」
そう言って元気の肩を叩き、諏訪は離れていく。もうちょっとで前半終了か。なんとかこれ以上の失点は避けたい……。
そう元気が思っているところへ、無情にも松井直がドリブルを仕掛けてくる。
(ちっくしょう!)
半ばやけになって、元気はふらつきながら松井直のボールを奪おうとする。が、元気の意志に足がついていかず、彼女に体当たりする形になってしまった。衝撃が体に伝わってくる。
(ヤバっ……!)
彼女を吹っ飛ばして、怪我させてしまうかもしれない。一瞬そんな考えが浮かんだが、
「どわぁぁっ!」
吹っ飛んだのは元気のほうだった。予想以上の衝撃によって、コートを無様に転がっていく。……どうにか体を起こした元気の目に入ったのは、心配そうな顔をして近付いてくる松井直だった。
「大丈夫!?」
彼女は元気の体が当たってもビクともしていないようだ。日頃の鍛え方が根本的に違うのだろう。ぶつかった元気を跳ね返してしまうほどなのだから……。
元気はずり落ちた眼鏡の位置を直す。壊れてはいないようで安心した。
「ええ、まあ」
「良かったっ」
そう言って彼女はにっこり笑い、コートに座り込んだままの元気に右手を伸ばしてくる。元気は一瞬迷ったが、素直に彼女の手を取った。暖かい。松井直が元気の手を引っ張り、立ち上がらせてくれると同時に、ホイッスルの音が鳴った。
「もう終わりかぁ」
松井直がつぶやくと同時に、その手が離れる。元気は目を閉じた。
(みじめだ……)
女の子にけちょんけちょんにされて、弾き飛ばされて、優しくされて……最後のは嬉しくなくはないけど……でも、みじめだ……。やっぱり来なければ良かった……。
汗だくになった元気がいじけていると、
「はい審判! ハーフタイムに入る前に提案です!」
みちるの甲高い声が聞こえてきた。声のしたほうを見ると、みちるが審判の居酒屋店主に何やら話しかけている。
「なんですか?」
「あの子……松井さんでしたっけ? 凄すぎると思うんですけど!」
「そりゃまあ、ねえ。仕方ないじゃないですか。凄いんだから」
「そうなんです。だから提案があるんですよ!」
何を言い出すのか、当の松井直を含めて皆がみちるに注目している。ひょっとして松井直をこれ以上試合に出すな、と言い出すのか? と元気は一瞬思ったが、違った。
「このまま後半に入っても、松井さんがそちらのチームにいる限り、ワンサイドゲームになるだけだと思うんです。それはお互い楽しくない気がするんです。なので、戦力の均衡化のために、松井さんをこちらのチームに下さい! 移籍です。レンタル移籍?」
みちるの言葉に「えー!」という相手チーム選手の声が聞こえてきた。当然だろう。そもそも『レンタル移籍』という言葉の使い方は正しいのだろうか。適当に言ってるだけじゃないだろうか。
「単純に松井さんがこちらに移るだけだと問題だというなら、トレードもありじゃないかと思います。女の子同士ということで、わたしと交換とか」
「女の『子』……?」
諏訪が疑問の声を口に出したが、みちるにギロリと睨まれ「なんでもないです」とあわてて撤回した。
「そりゃ遊びの試合だから、当事者が良いなら良いと思いますけどねえ」
審判の言葉で、コートにいる皆の注目が松井直に集まる。彼女はきょとんとしていたが、やがて口を開き、
「そうですねえ……あたしは別に、構いませんよ。今、四点差ですよね。そこから逆転するなんて、燃えるじゃないですか」
そう言って不敵に笑った。一瞬だけ元気の方を見たように思えたが、気のせいだろうか。
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