名人と恋人

平河ゆうき

棋士とアスリート(1)

 相手の飛車ひしゃが自陣に打ち込まれた。降伏勧告に等しい一撃だ。

 高森元気たかもりげんきは脇に置いたペットボトルを手に取り、水を口に含んだ。体力は限界をとっくに超えている。体内の水分も糖分も全て枯れ果てているように感じてしまう。勝てる将棋だったはずなのに、どうしてこうなった……。

 元気は盤を挟んで向かいに座る赤崎鉄也あかさきてつや九段をちらりと見た。元気の父親と大して年齢が変わらないであろう長身の中年男は、スーツを脱ぎ捨て、ネクタイを外し、ワイシャツの袖をまくって太い腕を組み、盤面を睨み付けている。もちろん疲労の色は浮かんでいるが、まだまだ余裕はありそうな様子だ。少なくとも元気よりは。

 目を開けているのも辛くなってきた。元気は黒縁眼鏡を外して軽く目をこすると、再び眼鏡をかけた。体力の差で負けたなどとは考えたくないが、全否定もできない。

 今度は離れた位置で記録係を務めている奨励会員しょうれいかいいんを横目に見た。元気よりも歳上に見える青年は、眠気を必死にこらえているようだ。彼にも聞こえるように意識しながら、

「……負けました」

 元気はなけなしの気力を振り絞って発声し、頭を下げた。午前七時一五分、終局。前日の午前一〇時から対局が始まったので、対局時間は休憩を含めれば二〇時間を超えていた。


 こうして二度の千日手せんにちて指し直しの末、高森元気七段は順位戦B級1組の最終局に敗れた。年間通して一三名の棋士により行われた戦いにおいて、元気の結果は八勝四敗。好成績なのは間違いないが、来期A級へと昇級できるのは上位二名のみである。

 この最終局に敗れたことにより、元気はA級への昇級を逃した。プロ棋士として一六歳でデビューしC級2組から順位戦に参加して以来、毎年度連続で昇級してきたが、初めて阻まれたのだ。『鬼の棲家』と呼ばれるこのB級1組で。


「牛ねぎ玉丼の豚汁セット。あ、大盛りね」

「……しらすおろし定食」

 赤崎の旺盛な食欲に驚きつつ、元気は店員に朝定食を注文した。

 対局を終えた二人は将棋会館を出ると、なぜかそのまま朝の牛丼屋でカウンター席に並んで座っている。感想戦を終えた後、元気としてはすぐにでも自宅に帰って眠りたかったのだが、赤崎に「一緒にこの後モーニングでもどう?」と声をかけられたのだ。大先輩の誘いを断る気力は、元気に残されていなかった。

(モーニングって、牛丼屋かよ……)

 そう思ったが、口には出さなかった。

「今まで対局やイベントで顔を合わせることはあっても、ろくに高森くんと話したことなかったじゃない」

「ええ、まあ」

「自分で言うのもなんだが熱戦だっただろう、今回の対局は。なんか妙に連帯感? 親しみ? そんなのがあってな。もうちょっと君と話したくなったわけよ。君は悔しいかもしれないけどな」

 そう言って、赤崎はがっはっは、と笑う。嫌みは感じなかった。人柄だろうか、と元気は思う。

「悔しい思いはありますけど、なんとなくわかりますよ。僕も、赤崎先生の心理が気になってましたから」

「心理とは?」

「なんであそこまで粘れるんですか」

 中盤以降、常に元気が優勢に将棋を進めていた。が、赤崎の驚異的な粘りの前にミスが出て膠着状態となり、千日手指し直し。指し直し局でも同様の展開となり、午前四時過ぎから始まった二度目の指し直し局では疲れからか双方に悪手が出て泥沼の戦いとなった末に、元気は敗れた。

 A級への昇級がかかった元気はモチベーションが高かった。対する赤崎は対局前の成績は六勝五敗。昇級の目は無く、降級する恐れも無いという状態だった。一つでも多く勝って順位を上げておいた方が来期有利になるとはいえ、そこまで必死に将棋を指せるものなのだろうか。敗れた者として、赤崎の心情は気になっていた。

「なんでって、プロなんだから勝ちたいと思うのは当然なんだろうが……君が聞きたいのはそういうことじゃないんだろうな。そうねえ……」

 赤崎は少し考えると、

「高森くんを易々と昇級させてたまるか、という意地みたいなものはあったね。でも、それよりも単純に、一つでも多く勝ちたい、順位を一つでも上げておきたいという気持ちは常にあるよ。奥さんと二人の娘の生活がかかってるもんでね」

「ああ……」

 家族の生活のために。そんな思考は元気には無かった。

「苦しいとき、誰かのためにと思えば意外と頑張れるもんだ。高森くんはいないのか、彼女とか」

「いませんよ」

「なんだ、つまんない。若いんだから、将棋ばかり指してないで遊ぼうぜ~」

「はあ」

(めんどくさいな、この人)

 元気が頭の中でぼやくと、二人の食事が運ばれてきた。

「お、いただきます」

 赤崎のトレイには、大盛りの牛丼と豚汁が乗っている。

「あんな将棋が終わった朝に、よくそれだけ食べられますね」

「食べられる食べられる。君こそ、しらすおろし定食? そんなのでいいのか。若いんだから、将棋ばかり指してないで沢山食おうぜ」

 がっはっはと笑い、赤崎は牛丼を食べ始める。やはりギリギリのところで体力の差が勝敗を分けたのかもしれない、と元気は思った。


 赤崎と別れた後、元気は電車で三〇分かけて一人で暮らす賃貸マンションに帰った。一六歳でプロ棋士となった直後は、地元の仙台で高校に通いながら対局の度に東京や大阪へ向かっていた。高校卒業を機に実家を出て東京で一人暮らしを始め、約二年。不規則な生活には慣れたが、終局に朝までかかったのは初めての体験だった。おまけに昇級を阻まれる手痛い敗北だ。徒労感は果てしなく大きかった。

 七階の部屋に入り、寝間着として使っているジャージに着替えると、元気はシャワーも浴びずベッドの上に倒れ込んだ。

(とにかく、今は眠りたい……)

 ゆっくり休んで、それから再出発だ。順位戦だけが将棋ではない。勝ち進んでいる棋戦は他にある。そんなことを考えながら目を閉じると、すぐに元気は眠りに落ちていった。


 枕元に置いたスマートフォンから聞こえる音で元気は目を覚ました。アプリの目覚ましアラームかと一瞬思ったが、違う。電話の着信音だった。眼鏡をかけ、スマートフォンを手に取る。画面には『諏訪隼人すわはやと』と名前が表示されていた。時刻は午後一時過ぎと表示されている。家に帰り着いたのが午前一〇時頃だったから、三時間しか寝られていない。

 無視しようかとも思ったが、電話は鳴り止まない。「もうちょっと眠らせてくださいよ……」とぼやいた後、元気は体を起こして電話に出た。

「もしもし?」

『よお、元ちゃん! 大変な将棋だったみたいじゃん。お疲れ! ネットでも話題になってるぞ』

 スマートフォンの向こうから聞こえる諏訪六段の声は、いつものようにテンションが高かった。

「結果までご存じなら、こんな時間に電話してこないでくださいよ……。本当に、本当に疲れてるんですから……」

 相手が六歳も年長の兄弟子なのだから、普段の元気ならもう少し話し方に気を遣う。が、さすがに今はそんな気持ちになれなかった。

 諏訪はと言えば『そりゃ悪かった、ごめんごめん!』とあっけらかんとしている。

『ま、二度指し直して朝までかかったうえに負けて、A級に上がれなかったんだもんな。元ちゃんのことだから疲れてへこんで落ち込んで鬱々としてるだろうとは思ってた』

「言い過ぎです」

『それでも連絡するほどの緊急事態ってことだよ』

「緊急事態って……なんです?」

 諏訪の声色が急に真剣味を帯びたので、元気は戸惑いを覚えながら質問した。

『高森、フットサルしようぜ!』

 完全に『サザエさん』の中島の口調で諏訪が言った。微妙に似ているのがまたイラッとする。

「………………一応聞きますけど、いつ?」

『トゥモロー』

「なんで英語。悪いですが、お断りします。急に言われても困りますし、だいたいなんで僕にそんなの振ってくるんです? 諏訪さんがフットサルたまにやってるのは知ってますけど、僕は興味も経験も無いですよ。それに、僕が運動神経悪いの知ってるでしょう」

『知ってるけどさ~、せっかく明日練習試合組んでるのに、急に来られなくなった奴が複数出てきて、メンバーが足りなくなってさ~。キャンセルするのは相手チームに悪いじゃん。頼む! 元ちゃん明日は予定無いだろ? 将棋と違って、勝ち負けなんて気にしなくていいから! 試合に出るだけ、出るだけでいいから! 先っちょだけでいいから!』

「勘弁してくださいよ。誰か他を当たってください」

 諏訪のくだらない発言は無視して、元気は断った。兄弟子の頼みとは言え、全て聞き入れる必要は無い。今日はゆっくり休んで、明日は研究に時間を使いたいのだ。

 が、諏訪は引き下がらなかった。

『しょうがないな。この手は使いたくなかったんだが』

「……なんですか」

『明日のフットサル、どちらも男女混成のチームなんだよ。で、俺のチームにはみちるさんも参加します』

「へえ……」

 嫌な予感がする。

『というか今、俺の隣にいます』

「ひぃっ」

 驚いた元気は小さな悲鳴を漏らしてしまった。

『ちょっと! 今なんか変な声出さなかった、元ちゃん!』

 電話の向こうの声が、急に女性のものに変わった。姉弟子である興津おきつみちるのものだ。引ったくるように諏訪のスマートフォンを奪う姿が容易に想像できる。

「ちょっとびっくりしただけです! みちるさんがいるとは思わなかったので」

 元気は自然と背筋を伸ばしていた。照井てるい一門のボス、興津みちる女流三段と話すときはいまだに少し緊張する。

『そう? ならいいけど。……ごめんね、元ちゃん。ものすごい対局の後でお疲れのところ、急なお願いをしちゃって』

「いえ」

『事情はさっき隼人くんが言ったとおりなんだけどね。スポーツ苦手な元ちゃんの気持ちもすっごくよくわかるけど、みちるのお願い聞いてほしいなぁ』

 言ってる台詞と声の威圧感が釣り合ってない、と元気は思った。

『楽しいよぉ、フットサル。終わった後は、居酒屋で打ち上げもあるよ。元ちゃんせっかく二〇歳になったんだし、また一緒にお酒飲みたいなぁ、わたし』

 だめだ、この人には逆らえない。元気は観念した。

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