3 「結構切れてるわね。」

「結構切れてるわね。縫うほどじゃないけど、二、三日ベースは弾かない方がいいわ。」


 あたしは、医務室で手当を受けている。

 と、いうのも。

 久々の公開リハだというのに、ベースの弦を切って、手の甲と指を切ってしまったからだ。



 …イライラしてる。

 この間から、ずっと。

 あいつのせいよ。

 何が、おまえが好きだ、よ。

 また、賭けか何かに決ってる。



「はい、体温計出して。」


 光史こうしに連れられてやって来た医務室。

 熱があるって光史にチクられたもんだから、あたしは熱も計らされてる。

 熱なんてあるわけないじゃない。

 あたしを誰だと思ってんの。

 …鉄の女よ?



「…38度5分。」


 原垣はらがき先生は、呆れたような口調。


「…38度5分…?」


「そう。38度5分。どうして気付かないかなあ?仕事に夢中になるのもいいけど、身体あってこそよ?すぐ帰って寝なさい。」


「は…ああい…」


 あたしは無気力な返事。


 …そんなに熱あったんだ。

 怠いはず。

 熱出したのなんて、何年振りだろ。


 しかめっつらのまま、医務室を出ると…


「あ…どうなんだ?」


 光史がいるはずのベンチに……京介。

 う…名前が出てしまった。

 呼ぶのもおぞましいって思ってたのに…



「…何であんたがいるのよ。」


 ぷいっと顔を背けて言うと。


「送ってやってくれって…」


「はっ?」


「…朝霧が…その…熱があるから、送ってやってくれって…」


「……」


 光史……!!

 何余計な事してんのよ――――!!



「いい。自分で帰る。」


「無理すんなよ。」


「触んないで!」


「……」


 肩に触れようとした手を振り払う。


「あたし、あんたとは何もなかったんだからね。」


「……」


「もう、あたしの周りうろつかないで。」


「……」


「分かった?」


「……」


 何を言っても無言。

 それどころか、ぜんっぜん視線を合わせない。

 何なのよ。

 あんなに調子良く話してた浅香京介は、どこへ行ったのよ。



 あたしは京介を残して、足早にその場を立ち去…


「聖子。」


 突然、後ろから…


「な…っ」


 ギュ――ッと、抱きしめられた…!!


「なっ何すんの…よっ!!」


 抵抗すると、肩を掴んで振り向かされて。


「んっ…!?」


 いきなり…キスされた!!


 な…ななな何っ!!

 何なの――!!


 抵抗したいのに、熱でボンヤリしてるせいか…体が、動かない。


「…どうしたら、いいんだよ。」


「……」


 やっと離れた唇。

 京介は、真顔で言った。

 …だけど、視線は…あたしの首元。


「どうにかなっちまいそうなくらい、おまえのことばっか考えてんだ。どうしたら…」


「…体は手に入っても、落とせなかったから悔しいだけなんでしょ。」


「そうじゃな」


 バシッ


 あたしは、京介を引っ叩く。


「……」


「あんた、どうしてそんなに自分勝手なの?どうしていいか分かんないって言いながら、なんでキスすんのよ。あたしの気持ちなんか、全然無視じゃない。」


「あ……」


 やっと視線が絡んだ。

 だけど、京介の目は…まるで蛇に睨まれたカエル。

 何。

 その、弱々しい目。


「もう、あたしにかまわないで。」


 京介の腕を振り払って歩き出す…けど…

 あ…あれ…

 足元が…


「聖子!」


 目の前が、真っ暗になった。

 倒れる寸前、抱き止めてくれたのは……。




 * * *



「あら、起きていいの?」


 目が覚めると朝になってた。

 まだボンヤリした頭でリビングに下りると、母さんがミルクをあっためてくれた。



「あたし…昨日、どうやって帰ってきた?」


 イスに座って頭を抱えたまま問いかけると。


「浅香さんって男の人が抱えてきてくれたわよ。」


「……」


「カッコ良かったなあ…あんた、ちゃんと男の知り合いいるんだ。」


 母さんは、意味深な笑顔。



 …母さんは、知ってる。

 あたしが、知花を好きだったこと。

 だから、こうして突然の知らない男出現に喜んでるんだろうけど…



「いい人ねぇ。今朝も、具合いどうかって電話があったわよ。」


「…大嫌い。もし、来ても通さないでよね。」


 あたしは低い声でそう言うと、ミルクを飲んで部屋に上がる。

 やれやれ、って顔の母さんが視界に入ったけど…


「…もう一眠りするか…」


 ベッドに入って、目を閉じる。



 眠りたい…

 何もかも忘れて。

 面倒なことは、忘れるに限る。

 でも…


「おまえが好きだ。」


 目を閉じると、浮かんでくる…

 あいつの顔。


「…もう、眠れないじゃないのよ…」


 寝汗をかいたかもしれない。

 シャワー浴びよう。

 クローゼットから新しいパジャマを取り出して、バスルームに向かう。


 さっぱりしたら、体調も戻るかも。

 熱はさがってるみたいだし。

 あとは、だるさが取れればいいのよ。



「母さん、お風呂入るね。」


 リビングにいる母さんに声をかけると。


「湯冷めしないようにね。」


 優しい声。


「うん。」



 母さんは、最近ようやく家にいられるようになった。

 それまで、ずーっとデザイナーとして七生のために働いて働いて。

 父さんが眠ったままになってしまった8年前から、ずっと…男になっていた。

 今は兄貴たちが頑張ってくれてるから、母さんも自分の時間を持てるようになったけど。


 あたしは…もっと、母さんに楽させてあげたい。

 父さんにも…早く目覚めてもらいたい…

 あたしは、こんなに成長したのよ…って。



「あら、嬢ちゃんお風呂ですか?」


「うん。」


 お手伝いの静枝さんが、タオルをクローゼットにおさめながら言った。


「お熱は下がりました?」


「うん。まだ少し怠いけど。」


「じゃ、ハーブティーを用意しときましょうかね?」


「ありがと。」



 静枝さんは、おばあちゃんみたいな存在。

 母さんも、本当の家族のように大事にしている。



「ふー…」


 バスタブに、バラの香り。

 あー、いい気持ち。


 手の傷にそっと触れる。

 …初めてだな。

 ベース弾いててケガするのなんて。

 イライラしてたから…罰があったったのね。

 そんな気持ちで、あたしを弾かないで…って。



 それにしても…嫌な奴。


 酔っ払って…しちゃったかもしれないけど。

 あたしの意識がある時のキス…

 ファーストキス。

 まさか、あんな奴にあんな形で奪われるなんて。


 いつも女に囲まれてて、自分に落とせない女はいないって賭けをするような奴。

 そんな奴に、好きだって言われても…騙されてるとしか思えない。



「あー…もうダメだ。」


 色々考え事してると、長くなってしまった。

 茹で上がったような頬をパシパシと叩いて、バスルームを出る。


「…好きって軽々しく口にするなんて、腹立つ…」


 小さくつぶやきながら、ふと鏡を見ると。

 なんとなく…自分の顔が悲しく見えた…。

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